「語り継ぎたい 山本マリーンズの話」に多くのコメント・トラックバックをいただきありがとうございます。
今日のエントリーでは、山本マリーンズ時代を知らない方のために、山本マリーンズの5年間を簡単に振り返っていきたいと思います。

まずは山本マリーンズ1年目、1999年です。

伝説の18連敗の翌年、「もっと強いチームで監督をやりたかった」と言い残しチームを去った近藤監督に代わり、2軍監督だった山本功児が新監督に就任しました。

新生山本マリーンズは序盤少々もたついたものの順調に勝ち星を重ね、7月7日にはなんと18年ぶりの首位に立ったのです。
奇しくも7月7日は前年にマリーンズが神戸で日本新記録となる17連敗を喫した日でもありました。悪夢のプリアム被弾、マウンドにうずくまる黒木、悲劇の記憶はファンの脳裏に鮮明に残っていました。地獄から天国へ。ファンは狂喜しました。山本監督の采配は「山本イズム」と讃えられ、球場では「山本マリンズ」コールがいつまでも鳴り止みませんでした。そして、監督の「今日は勝利の余韻に浸りたい」発言の通り、ファンは首位浮上の快挙に酔いしれたのでした。これがいわゆる「七夕首位」です。

しかし、マリーンズの快進撃はここまででした。首位に立った翌日からチームは8連敗。7月末には4位に落ちていました。8月の試合では黒木は、「俺は最後まで諦めないぞ」とヒーローインタビューで涙ながらに絶叫したものの、チームが浮上することは最後までありませんでした。お家芸である秋の帳尻も発動せず99年は4位で終了。山本マリーンズの1年目は63勝70敗2分、借金7でした。
また、この年はルーキー小林雅英が初完投を含む5勝を挙げて活躍したほか。6年目の小野晋吾が初勝利を挙げています。
99年ドラフトでは高橋薫、清水直行、戸部浩、塀内久雄が指名されました。


■ ボーリック神話

99年にマリーンズに入団したボーリックはオープン戦で不調が続き開幕は2軍スタートでした。実は最初ブレイディの方が期待されていたんです。
しかし、4月14日の試合でいきなり初打席初ホームランを放つと打棒爆発。ボーリックがホームランを打った試合は必ず負けないという「ボーリック神話」まで産まれました。連勝記録は13で途切れたものの、トータルでは22勝2敗1分けと言う驚異的な勝率を残しました。
一方のブレイディは「働け働けブレイディ」と揶揄されるなど散々。8月には帰国してしまいました。

■ 松坂キラー

初芝様はゴールデンルーキーの松坂から3本もホームランを放ち、近鉄の高須とともに「松坂キラー」と呼ばれました。
圧巻だったのは4月21日の西武戦。黒木との息詰まる投手戦は初芝様渾身のソロホームランでリードを奪い2−0で勝利。超満員の観客に初芝様の力を見せ付けたのでした。

関連エントリ:初芝神の一撃で松坂粉砕!(99.4.21 再放送)


■ 初芝ニッポン

この年にはシドニー五輪アジア地区予選が行われ、なんと初芝様が日本代表の4番をお勤めになりました。事実上の壮行試合となったマリンの近鉄戦では初芝様がなんと単独スチールを決めたのです。試合後のスタンドは「はつしばーニッポン!」コールで大変な盛り上がりでした。

■ あの程度の投手に・・・

なぜかオリックス相手には相性が良かった長髪眼鏡の後藤利幸。6月の試合ではイチローすら4打数無安打に抑え込みました。しかし試合後にイチローが、「あの程度の投手を打てなかった自分に腹が立つ」と発言。これを聞いたエカは「あの程度とはなんだ!」と激怒し物議をかもしました。
客観的に見れば、確かに後藤は「あの程度」のピッチャーです。

■ 園川引退

80年代には10.19、伝説のダブルヘッダー2戦目に先発し「ざまあみろ!と思いましたね」と言う名言を残し、90年代にはイチローに200本目を打たれて、「僕1人で200本打たれたわけじゃないですし」という名言を残した園川がついに引退。常に負けが先行し好投手とはとても言えませんでしたが、年に数度だけ見違えるようなピッチングをする時に限り「スーパー園川」と呼ばれました。マリンで盛大な引退セレモニーは行われたのちに神戸で敗戦処理登板するという偉業を成し遂げています。この偉業は後輩である初芝様にしっかりと引き継がれました。

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