今回は山本マリーンズ2年目。2000年を取り上げます。

99年のオフは大きく動きました。小宮山がFA宣言すると見るや先手を取って自由契約にしてしまいます。結局小宮山は横浜へ。FAなら補償金が取れたのに・・・。さらに河本とのトレードで讀賣・石井浩郎(35歳)を獲得し、入団テストで河野博文(37歳)、榎康弘(27歳)、秦真司(37歳)、本西厚博(37歳)を獲得。若返りのため小宮山を首にしたはずが、なぜかヴェテランが増えてしまいました。意味不明です。

シーズンが始まると黒木、武藤、小林雅ら先発陣が壊滅。なんと4月は5勝17敗で、ダントツの最下位に沈みました。5月2日の近鉄戦でようやくホーム初勝利。その後は若干持ち直しますが、先発で安定していたのは小野晋吾ただ1人でした。
夏場以降はお得意の帳尻が発動し5位に浮上します。さらに上を狙いますが、黒木が絶不調で2軍落ちしたり、ほぼ毎試合クリーンアップに座っていた石井が7月に左手首を骨折して長期離脱するなど波に乗れません。新外国人のノット、ロバーツ投手とバリー外野手も期待外れ、守護神として君臨したウォーレンも不正投球疑惑に中指おっ立て事件などで調子を崩し、外国人はボーリック以外総崩れとなってしまいました。

秋以降は一時期4位に浮上するもすぐに5位に逆戻り。しかし空気を読まないマリーンズの真骨頂はここからです。10月5日と6日にはマジック1で乗り込んできたダイエーホークスに対しては無類の強さを発揮し2連勝。初芝様の劇的決勝アーチなどが飛び出し見事ホークスの胴上げを阻止しました。結局胴上げ阻止の瞬間だけ光り輝いたマリーンズは62勝67敗6分、借金5の5位でシーズンを終えました。

タイトルは昨年の初勝利から大きく飛躍した小野晋吾が最優秀勝率を獲得、小坂が盗塁王とゴールデングラブ、藤田が最多ホールドを獲得しています。また、抑えに転向したコバマサが初セーブを挙げました。前人未到のセーブ記録はこの年から始まりました。
2000年のドラフトでは田中良平、加藤康介、長崎伸一、渡辺俊介、青野毅を指名。特に加藤康介は左腕で背番号28と言うこともあり、園川2世として大いに期待されました。


■ ウォーレンの不正投球疑惑と中指事件

98年途中に来日し、その後マリーンズのクローザーとして活躍したウォーレンには「ヤスリなどでボールに傷をつけているのではないか」という不正投球疑惑がささやかれていました。99年には不問となったものの、2000年6月27日からの西武戦で疑惑が再燃。西武の東尾監督が球団社長とともにマリーンズの監督室を訪れ、山本監督に対し抗議を行ったのです。山本監督はウォーレンを聴取するもシロと判断。「隠すことは何もない。やっていないんだから。 じゃあ現行犯で逮捕してみてくれ」 と強気な姿勢を見せました。
6月29日の西武戦ではなんとウォーレンが練習用グラブにはさみ、かみそり、ヤスリなどをぶら下げて球場入り。西武側を挑発しました。そして9回にウォーレンが登板すると、球審の山崎は執拗なまでのボールチェックを行います。たまりかねた山本監督がベンチを飛び出して猛抗議、さらにファールを放った小関とウォーレンが交錯した際には両軍がベンチを飛び出し乱闘寸前、まさに一触即発の緊急事態となりました。
試合はウォーレンが抑えて勝利したものの、最後のバッターを空振り三振に打ち取った瞬間ウォーレンが西武ベンチに向かって中指を突き立てて大問題となりました。結局中指おっ立てについてはウォーレンが西武に謝罪し、不正投球疑惑についてはうやむやのまま終わりました。しかし、ウォーレンの暴挙はファンの心に強く印象付けられ、その後の試合ではウォーレンの登場時に中指を突き立てるファンが多数いたとかいないとか。

■ キャッチャー秦事件

7月16日の西武戦。乱打戦となった試合は8−7の1点リードで8回表を迎えますが、4番手のコバマサがタイムリーを打たれて追いつかれてしまいます。しかもこの回キャッチャー清水将がファールボールを手に当てて負傷。すでに橋本はベンチに下げてしまっており控えキャッチャーがいなくなっていたのです。「キャッチャーがいないぞ!」、「ディアズ呼べ!」、「袴田復帰させろ!」、「本西なら何とか・・・」など、ファンから悲鳴が上がる中、我々は信じられないアナウンスを聞くことになりました。
「キャッチャー 清水将海に代わりまして、秦」
ライトスタンドから悲鳴と歓声が上がります。確かに秦はヤクルト時代キャッチャーでしたが、それは古田が入るまで。なんと11年ぶりのマスクです。投球練習でウォーレンのシュートをことごとく後逸する秦。さすがのウォーレンも投げる球がありません。9回こそ何とか抑えたものの、10回に連打を食らって敗戦。その後ウォーレンは調子を崩し、中継ぎだったコバマサと配置転換されます。これが劇場王コバマサ誕生のきっかけでした。

そして秦本人はこの年限りで引退しマリーンズの2軍打撃コーチに就任。本拠地最終戦での「はったはったはったはったはったしんじー!」コールに対し、ベンチから出て手を振ってくれたのを覚えています。

■ サンデー晋吾

総崩れの先発陣の中で唯一安定した投球を見せたのが小野晋吾。毎週日曜日に登板し、なんと10連勝もしました。村田兆治の「サンデー兆治」にあやかりついた愛称が「サンデー晋吾」。スポーツニュースでも大きく取り上げられました。成績は13勝5敗、防御率3.45。惜しくも最多勝は逃しますが、最優秀賞率のタイトルを獲得しました。

■ レゲエナイト

諸積兼司がプロデュースした企画で、球場内で掛かる音楽や出囃子を全部レゲエにしてしまうというもの。確か男性DJが場内アナウンスを務めたような気がします。2000年から始まり、翌年以降も毎年夏に行われました。しかし、せっかく実施されても本人が二軍落ちして出場できない悲しい年もありました。

■ 日ハムに大負け

2000年はとにかく日ハムに勝てないシーズンでした。対戦成績は6勝20敗1分。7月には負け越しが決まり、山本監督も「日本ハム?いっぱい負けてるのは分かってる。もう、たくさん」とお手上げ。
特に関根裕之投手は天敵と言っても良い存在でした。99〜01年の3年間でなんと13連敗。予告先発で関根の名前を見たファンは暗い気持ちで球場入りしたものです。
これではいけないと球団は日ハム担当スコアラーという役職を新設します。コーチをクビになった園川を配置転換しますが、当の園川は荷物が多すぎて路線バスに乗車拒否されたエピソードが目立つ程度で、これといった実績を残せませんでした。

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