今回は開幕11連敗でいきなりシーズンが終わってしまった2002年です。

2001年のオフには戦力外組から高木晃次投手、井上貴朗投手、山崎健投手と伊与田一範内野手を獲得、さらには武藤とのトレードで日ハムから黒木純司投手を獲得しました。さらに寺本、山崎貴が打者に転向。寺本の転向はちょっと遅すぎました。この当時の2軍はぬるま湯で今とは大違いでしたから、もし寺本が今の体制下でしっかり育成されていたらもっと活躍できていたかもしれません。
キャンプでは高めに広がった新ストライクゾーンへの対応で四苦八苦。山本監督が「麻雀で勝負根性を鍛えろ」と言ったり、故高畠コーチが「チンチンブラブラ打法」を編み出したり、ネタだけは事欠かないキャンプでした。

そしてシーズンが始まると打てず守れずで連敗街道まっしぐら。開幕戦の澤井セカンド起用が裏目に出ました。あの守備はひどかった・・・。そして主力選手が極度の打撃不振に陥ります。ボーリックは新ストライクゾーンに対応できず、メイはただの無気力外人に成り下がり、初芝様はあまりの不調にファンからブーイングを受ける有様。しかも悪いことに4月早々小坂が骨折で長期離脱、守備の要がいなくなり、序盤でチームは崩壊しました。
「(打線が)金縛り状態だ。もう少し気楽にやればいいのに」
「打開策?やるよ。やりますよ。やるしかない」
「ファンに申し訳ない。(連敗の責任問題についての質問に)ほっとけや!くだらん質問をするな!おまえの会社は責任取ってるのか!」

このような状況でも山本監督の口から飛び出すのは珍言ばかり。開幕連敗を11で止めた後も、マリーンズが打開策を見つけられないままズルズルと負けを重ねていきます。、
「目標を見失わずに最後まであきらめるな。オレたちは夢を与えるのが仕事なんだ」
「何度仕切り直すと言ってきたか分からないが、もう1度仕切り直しだ。」
山本監督のゲキがむなしく響く中、ついに6月には借金20の最下位に沈みました。
ところが、小坂が復帰した夏場以降ロッテお得意の帳尻が始まります。メイや初芝様が別人のように帳尻を始め、堀、福浦にも当たりが出てきました。8/7のダイエー戦では見事な3タテで借金を一桁まで減らします。上機嫌の山本監督から「ウチは連敗のやり方は知っているし、怖さは味わっている」と名言が飛び出し、ファンを困惑させました。その後少々もたつきますが、9月は堂々の14勝6敗で4位浮上。9/20には初芝様の劇的ホームランで西武の胴上げを阻止。そして10/8の近鉄戦では高木様が完封勝利を決めて4位確定させました。
結局この年は67勝72敗1分、借金5の4位でシーズンを終えています。


■ ロッテだろ?普通に投げれば大丈夫。

ダイエーホークスのルーキー杉内俊哉がプロ初先発となるマリーンズ戦の前に、松坂から送られたアドバイスがこれ。
その言葉どおりマリーンズ打線は杉内に軽く捻られ2-6で負けてしまいました。このマリーンズを舐めきった発言にファンの怒りが爆発したものの、後にはマリーンズファンの自虐ネタとして長く愛されることになりました。2年後に起きる「杉内ブルガリア事件」とセットで覚えておきましょう。

■ ルーキー喜多が2試合連続サヨナラ打。

智弁和歌山で甲子園を春夏制覇、六大学野球では.535の史上最高打率を記録。喜多隆志は輝かしい成績を引っさげてドラフト1位で入団しました。1軍昇格直後のこと、喜多は5/1のダイエー戦でプロ初安打となるサヨナラ打を放つと、5/2の西武戦でもサヨナラ打を放ったのです。ルーキーとしては史上初となる2試合連続サヨナラ安打です。喜多は夢も希望も展望もないロッテを変えてくれる!喜多は一躍救世主扱いとなりました。そして応援歌の「NISHIOGI TOKIO」も名曲としてファンの人気を集めたものです。
しかし、輝いたのは最初だけ、非力なバッティングと並以下の守備が災いし、1軍で成績を残すことができません。バレンタイン政権下では1軍出場すらなくなり、2006年オフに戦力外。ファンの期待と夢を背負った喜多は、あまりにも早くユニフォームを脱ぐことになりました。私は歯がゆくてたまりません。もう少し闘志を表に出してくれれば、もっと喜多はやれたのではないかと・・・。



■ 4番立川

パワーと潜在能力で毎年期待されながらパッとしなかった立川。いまや「元プロ野球の4番打者」としてK1で活躍中の立川が実際に4番を打っていたのがこの年の6/24から7/27の間でした。しかしあまり打たなかったために1ヶ月で降格、7番に下がった試合ではホームランを打ったものの、山本監督からは「立川の打順は下げたんじゃない。勝手に下がったんだ!」と言われる始末でした。


 コバマサが連続セーブ日本記録を達成

9/3の近鉄戦でコバマサが23試合連続セーブポイントのプロ野球新記録を達成しました。チームが弱く、とても優勝など望めない状況でコバマサは黙々と投げてくれました。とにかく最終回のコバマサまでつなげれば勝てる、という確信が当時はあったのです。2004年からは劇場型になってしまいましたが・・・。


■ 初芝様の活躍でまたも胴上げ阻止

9/20にマリンで行われた西武戦。例によってマジック1で乗り込んできた西武に対し、初芝様の帳尻打棒が火を噴きました。タイムリーヒットにソロホームランと大活躍、最終回には見事なトンネルまでかまし、1失点勝利のミンチーを押しのけお立ち台の栄誉に輝いたのです。ヒーローインタビューでは「練習でも打てたことのないような当たりでした」、「こういうときだけは強いんで」と名言を連発した初芝様は、「今日は最後に変なプレーをしてすみませんでした!」と爆笑インタビューを締めくくりました。ああまさにミスターロッテ。これだからマリーンズファンはやめられないのです。試合後の帰り道でふと幕張プリンスホテルを見ると、紅白の幕に特設プールが見えたんですよね。きっとあそこでビールかけをやるつもりだったのでしょう。しかしマジック1の相手に5連勝中のマリーンズがそんなことをさせるはずがないのです。「宴の後」にもならなかったビールかけ会場を横目に、我々はニヤニヤしながら帰途につきました。


■ 56号がかかったカブレラと勝負

10/14に行われた西武との最終戦、世間の注目はカブレラが日本新記録となる56号ホームランが飛び出すかどうかの一点に集まっていました。なんと西武の1番バッターはカブレラ。1回でも多く打席を回そうと言う伊原監督の計らいです。
第1打席と第2打席は高木様が抑えますが、第3打席にはレフト前ヒットを打たれてしまいます。力尽きた高木は5回で交代。6回からはコバヒロが登板します。
そして迎えた7回の表、2アウト2塁でカブレラの打席を迎えました。球場全体が異様な盛り上がりを見せる中、小野投手コーチがマウンドに向かいます。コーチが戻ってもキャッチャーの里崎は立ったまま。。3塁側のみならず、1塁側からも罵声が飛びます。やはり敬遠なのか。しかし、里崎はゆっくりと座りました。勝負です。先ほどまでの罵声は球場全体を揺るがす大歓声に変わります。そしてコバヒロは渾身のピッチングでカブレラを三球三振、見事56号ホームランを阻止しました。
王ダイエーの露骨な敬遠攻めに代表されるように、カブレラには打たせないというのが当時の球界の総意だったようですから、ここでもマリーンズのKYぶりが炸裂した形になりますね。試合に負けて勝負に勝ったという試合でした。




■ 平井光親の引退試合
2002年はヴェテラン平井が引退した年でもあります。
1991年に規定打席ギリギリかつ史上最少安打で首位打者を獲得したものの、本人の性格も相まって非常に地味な選手でした。しかし打撃技術は高く、90年代はロッテの主力として活躍します。しかし2001年から出場試合を大きく減らし、ついに2002年をもって引退。ラストゲームの近鉄戦では門倉からタイムリーヒットを放ち、自らの引退に花を添えました。
引退試合の模様とセレモニーの様子が動画に残っていました。

平井光親引退試合 その1 その2 その3


■ 勝つ気のない球団にファンの怒り爆発

7連連続Bクラス、山本マリーンズとしては3年連続Bクラスという体たらくにもかかわらずあっさりと監督とフロントの留任が決まってしまったため、ファンの怒りが頂点に達しました。9月17日の試合後にはライトスタンドで「来季はもう始まっている。フロント変えなきゃ来年も勝てない」、「急募!野球を知ってる球団代表」という抗議の横断幕が掲げられ、スポーツしにも取り上げられました。しかしこうしたファンの声もあっさり無視され、マリーンズはもう1年暗黒時代をすごすことになります。

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