高木さんと川崎

マリーンズを戦力外となった高木さんが、ついに現役引退を決めました。

オファー届かず…ロッテ戦力外の41歳・高木引退決意 (スポニチ)

ロッテから戦力外通告を受けた高木晃次投手(41)が現役引退を決意した。

30日、球団事務所を訪れて引退の意向を報告。現役続行を希望し12球団合同トライアウトに参加したが他球団からのオファーは届かず「未練がないと言ったらウソになるけど、やるべきことはやった。踏ん切りがついた」。一度は球団職員への転身を打診した球団側は、再度職員での採用を検討する。



高木さんは千葉県の横芝敬愛高校から1986年ドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。
左の速球派ということで期待されるも1軍に定着できず93年オフにトレードでダイエーホークスへ移籍しました。
しかしダイエーでの3年間で1軍登坂はわずか5試合。97年オフに自由契約となってしまいます。
その後当時野村再生工場と呼ばれたヤクルトにテスト入団。99年には先発として9勝を挙げる活躍を見せました。
ところが翌年以降調子を落とし出番が減少。2001年オフにまたも自由契約となってしまいます。
ここで救いの手を差し伸べたのがマリーンズでした。テスト入団後先発としてたまにしか好投しないシーズンが続きます。
ルーキーの時には150キロを超えていた速球の威力が年齢を重ねることによって衰えてしまったのです。

転機は2004年。先発として結果を出せなかった高木さんは中継ぎに転向。徐々に球速が戻り始め、左の中継ぎとして存在感を発揮し始めます。
2005年以降は小宮山と共にチームを影から支えるヴェテランとして、ビハインド時のや早いイニングからのリリーフとして渋い働きを見せました。
特に先発投手がアクシデントにより早々と降板した後の登坂は素晴らしかった。チームのピンチを救う快投はまさに「ハイパーレスキュー高木」と呼ぶに相応しいものでした。
2005年の高木さんは20試合に登板し防御率3.20。2006年も中継ぎや左のワンポイントとして33試合に登板するも防御率5.61、数字を落としてしまいました。

しかし、これで終わらないのが高木さんです。
2007年は藤田の乱調によって出番を増やし、若手の川崎と共に左の中継ぎとしてフル回転しました。40目前にして最速148キロまで威力を戻したストレートを武器に自己最多の43試合に登坂。防御率も3.79をマークしました。そしてCS第2ステージの日ハム戦では足の痙攣で降板したコバヒロに代わって急遽登坂。見事日ハム打線を抑えて勝利投手になりました。ハイパーレスキューの面目躍如!あれは感動しまたね。すばらしい大活躍です。しかもこの年は20年目にして初のFA権獲得。2度の自由契約でも諦めずにこつこつと頑張った高木さんが始めて掴んだ一流の証でした。

翌2008年は川崎や根本や松本など左の中継ぎが総崩れとなる中で一人奮闘。43試合に投げ防御率3.54をマークしました。そして今年2009年。キャンプから1軍スタートと順調な滑り出しを見せたものの、制球を乱して炎上することが多く夏以降2軍落ち。そのまま1軍に上がることなくシーズンを終えてしまいました。そして2009年オフにはついに3回目の自由契約。球団スタッフへの転進を進められたものの、高木さんは現役続行を希望しました。
しかし、甲子園で行われた第1次トライアウトに参加するもオファーはなく、先日神宮で行われた第2次トライアウトは不参加。
「未練がないと言ったらウソになるけど、やるべきことはやった。踏ん切りがついた」
ついに高木さんは引退を決め、23年間の現役生活に別れを告げたのでした。

決して順風満帆ではなかった高木さんの野球人生。でもそれが高木さん独特の渋さとダンディズムをかもし出していたと思います。
ヴェテランの枯れた味わいとはまた違う魅力ですね。飄々とマウンドに立つ背番号48の後姿はとにかく格好良かった。もう見られないと思うととても残念です。

一度球団によるスタッフ転身要請を断ったにもかかわらず、球団は再度スタッフとしてのポストを検討するとのこと。生え抜きでもないテスト入団の選手としては異例の厚遇です。きっと高木さんの人柄のなせる業でしょう。将来的にはぜひマリーンズのコーチとして、未来の大投手を育ててほしいですね。

高木さん、本当にお疲れ様でした。

■ 追記

高木さんはスコアラーになるようです。

ロッテ、高木晃次投手を球団職員に採用 (サンスポ)

ロッテは1日、11月30日に現役引退を表明した高木晃次投手(41)をスコアラーとして採用する方針を固めた。

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