
トルコ旅行記の第10回です。
古代ギリシャ・ローマ時代の大規模な遺跡、エフェソスを見学します。長いので前後半に分けました。
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2010年9月22日。
14:45。エフェス遺跡に到着しました。
エフェスは紀元前1500~1000年ごろから6世紀ごろまで栄えた古代の港町です。ヘレニズム都市として栄えた後、ローマ時代にはローマの属州となり、小アジア地方の州都として繁栄を続けました。キリスト教とも深い関わりがあり、聖母マリアは晩年をこの地で過ごし、聖ヨハネが没した土地もここエフェソスと言われています。ローマ時代の431年にはキリストの神性やマリアの聖性を議論するエフェソス公会議が開かれました。
しかし、6世紀頃になると港が土砂で埋まりだしたため、町の中心が近隣のアヤソルクの丘に移動します。その後8世紀にはアラブ人の攻撃を受けるようになり、ビザンツ帝国はエフェソスを放棄。やがて街は廃墟になってしまいました。

さて、そんなエフェソスを見学します。
エフェソスは丘の下の北入口と丘の上の南入口があります。我々が回ったのは南入口。こちらは下り坂なので楽に見学できます。ガイドさんによると「うるさい団体は北から登らせて静かにさせます」とのこと。入口を入るとまず上のアゴラ、広場の跡があります。

ローマ時代の水道管。上下水道完備でしょうか。

左がオデオンと呼ばれる音楽堂、右がローマ時代の浴場です。

ヴァリウスの浴場と呼ばれ、床下暖房が完備されていたそうです。完成は2世紀。

なにやら建物の跡です。

クレテス通り。丘の下にある図書館に向かって延びています。

クレテス通り。かつては屋根があったのでしょうか。

オデオンに入ってみました。1400人収容の小規模ホールで、当時は屋根つきでした。

オデオンの脇には市公会堂があります。

今は柱が残るのみです。

かつて市公会堂には聖火が灯されていたそうです。

クレテス通りを下っていきます。

彫刻が残る建造物が見えてきました。メミウスの碑といい、1世紀ごろに作られ、スッラ、その息子のガイウスと孫のメミウスと3代に渡るエフェソスの支配者のために造られたのだそうです。

メミウスの碑を横から見てみました。

メミウスの碑からクレテス通りを挟んで反対側にはドミティアヌス神殿があります。かつて皇帝ドミティアヌスを祀るための神殿として建設されましたが、皇帝が家臣たちに殺されると神殿も取り壊されてしまい、現在は柱と土台しか残っていません。

かなり大きな柱です。

ドミティアヌス神殿の脇にポリオの泉があります。
1世紀にオフィリウス・プロクルスがC.セクスティリウスに捧げる為に造ったと言われ、泉は大理石で覆われた像で装飾されていたとのこと、今は瓦礫しか残っていませんが、円形の門が印象的です。

これもポリオの泉の一部らしいです。

歩いてきた道を振り返ってみます。

美しい女神ニケのレリーフ。この見事な彫刻はこの先にあるヘラクレスの門のアーチ部分に飾られていました。

ヘラクレスの門が見えてきました。

ヘラクレスの門。アーチ部分が取れてしまっています。

ヘラクレスの門からの景色。これが古代ローマの道ですよ。大昔の光景がよみがえってくるかのようです。坂の奥に見えるのがケルスス図書館です。ここで記念撮影をしました。

門の反対側にヘラクレスの彫刻があります。

石畳の道をさらに下っていきます。

三角ファサードが印象的なトラヤヌスの泉です。102年ごろ皇帝トラヤヌスに捧げるために建立されました。台座以外は原形をとどめておらず、正面アーチだけが復元されています。

後ろを振り返ります。

このあたりは住宅です。

丘の上の住宅といわれるこの場所にはモザイク模様の床が残されています。

斜面に沿って家が立ち並んでいたのでしょう。

左手の壁の向こうは有料なので入りませんでした。

スコラスティカの浴場。古代ローマの公衆浴場です。

1世紀に建設されたこの公衆浴場は4世紀の大地震で崩壊。その後スコラティカという女性の尽力で再建されました。かつて脱衣場だった部分のスコラティカの像が残っています。

このあたりは浴槽でしょうか。

3階建てだった建物の2階部分に上がっています。

ハドリアヌス神殿。正面アーチは現在修復中でした。

奥のアーチにはメデューサの彫刻があります。

ハドリアヌス神殿の奥にはローマ時代の公衆トイレがあります。
仕切りはありません。上流階級の人たちは冬場自分の奴隷に先乗りさせて便座を暖めさせたと言います。

かなり深い溝が掘られています。ローマ時代のトイレは水洗でした。

ケルスス図書館が近づいてきました。後編に続きます。
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