
オーストリア旅行記の第54回です。
長かったオーストリア旅行記もこれで最終回。
最終日は午前中に新王宮を見学し、帰国の途に着きます。
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2011年9月25日日曜日。
オーストリア旅行もついに最終日を迎えました。
今日は午前中にウィーン中心部のホーフブルク王宮を見学し、ウィーンミッテ駅から空港行き列車に乗ってウィーン国際空港に向かいます。
その後13:30発のオーストリア航空の便で帰国の途に就きます。成田到着は翌26日の朝7:35となる予定です。

朝7時に起床。7時半から朝食です。
メニューは充実しており、ハムやソーセージやベーコンや卵焼きやパン。グレープフルーツまでありました。
ゴージャスな部屋でのおいしい食事でした。このホテルには日本人も何人か止まっているようでしたね。
さて、今日はウィーン中心部にあるホーフブルク宮殿を見学してから空港に向かう予定です。宮殿の見学は9時から。
チケットは数日前シェーンブルン宮殿でシシィチケットという共通入場券を買ってありますから、時間的にはまだ余裕があります。
そこで、空港行きの列車が出るウィーンミッテ駅で事前チェックイン手続きをすることにしました。
ウィーン国際空港発着便のチェックインは空港の他ウィーンミッテ駅のCAT(City Airport Train)乗り場に併設されたCAT(ウィーン・シティエアターミナル)の窓口で行うことができます。
オーストリア航空であれば前日夜18:00から22:30までチェックイン可能で、当日は朝5時からチェックインできます。しかも手荷物も預けられます。
空港ではなくウィーン・ミッテ駅で手続きをしてしまえば空港で長い行列に並ぶ必要がありませんし、市内から空港まで手ぶらで移動できますから楽ちんなのです。

問題があるとすればウィーン・ミッテ駅が工事中で分かりにくいこと。
ホテルを7時40分にチェックアウトし、シュテファンプラッツ駅から地下鉄に5分乗ってウィーン・ミッテ駅に到着したものの、どこに向かえばいいのかわかりにくく、ちょっと迷いました。
やっとこさCATへの矢印を見つけたかと思えば、工事中のこんな道を延々と歩かされます。

指示に従って工事現場をうろうろし、本当に空港行きの電車の駅があるのか不安になってきたころ、ようやくCATの入口を見つけました。

建物内はあまり人がいません。空港なら長蛇の列ができるチェックインもここでは一瞬です。紙に印刷したEチケットとパスポートを見せ、スーツケースを預けてチェックイン手続きは無事終了しました。
あとは空港に1時間半ほど前に到着すれば大丈夫です。
CAT City Airport Train

チェックインを済ませ、地下鉄でシュテファンプラッツ駅に戻りました。ここから歩いてホーフブルク宮殿を目指します。
ウィーンの目抜き通りも今日で見納めかと思うと残念です。

15分ほど歩きホーフブルク宮殿に着きました。

まだ9時になっておらず、入口は閉まったままです。
ホーフブルク王宮は13世紀ごろに建設され、その後1918年までハプスブルク家歴代の神聖ローマ皇帝またはオーストリア皇帝の居城となりました。
ハプスブルク家の強大化と領土の拡大に伴って幾度も拡張され、18世紀にはほぼ現在の形になったと言われています。
現在の王宮は博物館として一部が一般開放されているほか、シシィ博物館、銀器コレクションの博物館、オーストリア大統領府、国際会議場、ウイーン少年合唱団がミサで歌う礼拝堂、スペイン乗馬学校といった施設も入っています。
私がこれから見学するのは王宮で使用された銀器コレクションの展示スペースと皇妃エリザベートの人生をたどるシシィ博物館、王宮の見学可能な部分です。
これら3か所はセットになっており、1枚の入場券で見学できます。

入口で日本語のオーディオガイドを借りて中に入りました。まずは銀器コレクションの部屋があります。銀器に限らず王宮内で使用されていた高級食器がこれでもかと飾られています。

ミラノ製のセンターピース。1838年につくられたもので、全長30メートル以上あります。美しい装飾です。

絵皿が並んでいます。どれも見事な絵ばかりです。

銀器コレクションは意外と見ごたえがありました。好きな人にとってはたまらないでしょう。

黄金の燭台です。

ずらりと並ぶ黄金の燭台。迫力があります。

中国や日本など、アジアからも陶磁器を大量に輸入していたそうです。中には買いすぎて借金まみれになり、死後コレクションを売却せざるを得なくなった皇帝もいるのだとか。
銀器コレクションの詳細はホーフブルク宮殿のホームページにて開設されています。
興味のある方はご覧になってください。
ホーフブルク宮殿公式ホームページ
展示物の紹介

銀器コレクションの見学を終え、シシィ博物館と王宮へと進みます。残念ながらここからは撮影禁止のため写真がありません。
シシィ博物館は皇妃エリザベートの波乱の人生をたどり、「天衣無縫に育った美少女が、いかにして、人生に失望し死に憧れる放浪者となった」のかがよくわかるようになっています。
展示されているのは婚姻前の少女時代の服装、婚礼衣装。宮廷での華美なドレス。シシィが身に着けていたアクセサリーのレプリカや肖像画。ダイエットや健康維持のための様々な道具。精神を病んだ後の黒いドレス、旅行に出かける際に乗車した専用車両の内装の再現などです。
面白いものではアイスやチョコレート菓子の請求書などもありました。
ただ、日本語のオーディオガイドが詳細に説明してくれるのですが、その説明にどうも悪意がこもっているような気がします。ホーフブルク宮殿のホームページにオーディオガイドの説明が掲載されていたので、ちょっと抜粋してみましょう。
1854年4月、バイエルン公爵家の姫君エリーザベトがウィーンに到着しました。まだ16才の彼女は、従兄のフランツ=ヨーゼフ皇帝と結婚することになっていたのです。婚礼の後、ホーフブルク王宮を住まいとした彼女は、突然、オーストリアの宮廷生活と直面することになりました。 これからシシィ・ミュージアムにご案内申し上げましょう。次の6つの部屋で、シシィをめぐる神話と真実をご覧ください。
1898年9月10日、悲報がヨーロッパに広がりました。オーストリアのエリーザベト皇后が暗殺されたのです。 エリーザベト皇后の暗殺事件は、周囲から誤解された類稀な女性の波乱に満ちた生涯に終止符を打つものでした。他方、彼女の悲劇的な死は、シシィをめぐる伝説形成に決定的な役割を果たしました。もちろん彼女自身も、存命中の型破りな生活によって自ら伝説を生み出しました。伝説は、どのように形成されたのでしょうか?天衣無縫に育った美少女が、いかにして、人生に失望し死に憧れる放浪者となったのでしょう?これから私たちも、エリーザベト皇后の魂の遍歴をたどりましょう。
前後のボードに展示された新聞の切り抜きは、当時の新聞に掲載された皇后に関する報道を集めたものです。ここから明らかなのは、存命中の彼女が、決して愛され親しまれ新聞のトップを飾る存在ではなかったことです。エリーザベトは、早くから皇后たる公的役割を避け、晩年はウィーンで過ごすことも稀で、殆ど報道されることはありませんでした。また、王朝時代の新聞は厳しく検閲されたので、皇后に対する批判なども不可能でした。他方フランツ=ヨーゼフ皇帝は、勤勉に自らの責務を果たし、「善良な老皇帝」として国民に親しまれていました。従って皇后暗殺の報道においても、国民の同情は、次々と不慮の事故で身内を失った皇帝に集中していました。人々から敬愛される献身的なエリーザベト皇后のイメージは、暗殺事件以降に形成され、この虚像が後世に伝えられました。
エリーザベト皇后の存命中、人々は、身を引いて暮らす「風変わりな」皇后に全く無関心でした。漸く彼女の没後、テロリストに暗殺された悲劇の美女というイメージのマーケッティングが可能となりました。彼女の面影を偲ぶ記念の肖像画、記念のコイン、その他様々の記念品が急速に普及しました。
とりわけ、彼女の物語が映画化されヒットすると、愛される「シシィ」のイメージが全世界に広がりました。その典型的な例は、1950年代にエルンスト・マリシュカが制作した3部作で、シシィを演じたロミー・シュナイダーは一躍、映画界のスターとなりました。この映画に登場する、若く屈託の無い愛すべきシシィのイメージは、当時から今日に至るまで広く普及しています。けれども、歴史上のシシィと合致するのは、映画のごく一部に過ぎません。これから、歴史上のエリーザベトを訪ねることにいたしましょう。
エリーザベトは1837年12月24日、ミュンヘンで生まれました。父はバイエルン公爵マクシミリアン、母はバイエルン王の娘ルドヴィカです。家族からシシィの愛称で呼ばれたエリーザベトは、多くの点で父親に似ていました。庶民的な公爵は、自然を愛し、熱心な馬術愛好家で、好んで旅に出掛けました。少女時代のシシィは、ミュンヘンの宮殿とシュタルンベルク湖畔のポッセンホーフェン城に住み、堅苦しい宮廷の作法や儀式とは無縁に伸び伸びと育ちました。2才年下の弟カール・テオドールは、家族の間で「ガッケル」と呼ばれていました。エリーザベトは生涯にわたって、この弟と特に親密な関係にありました。
1853年夏、シシィの母と、ネネの愛称で呼ばれた姉ヘレネがバート・イシュルへ向かい、シシィも同行しました。これはフランツ=ヨーゼフ皇帝の23才の誕生日を祝うためでしたが、本当の目的は、姉妹である双方の母親が計画した皇帝の花嫁選びでした。2人の母親の計画では、フランツ=ヨーゼフとネネが婚約するはずでした。母親の予定とは裏腹に、フランツ=ヨーゼフ皇帝は15才のシシィに一目惚れしたのです。 こうしてフランツ=ヨーゼフはシシィに求婚しました。返事を求められたシシィは、わっと泣き出しました。「どうして、彼は私のことばかり考えるのでしょう。私は取るに足らない人間です。私も皇帝が大好きです。ああ、彼が皇帝でなかったら良いのに! 8月19日には、正式の婚約式が行われました。突然人々の視線を一身に集めたシシィは、おびえて殆ど無言でしたが、他方、フランツ=ヨーゼフは有頂天になりました。皇帝の母ソフィー女大公は、シシィの置かれた立場を良く理解していました。一般には、女大公が息子の選択に反対だったとされますが、実際には、幸せそうな息子の様子を見て、彼女も2人の婚約を喜んでいました。
イシュルでの婚約後、バイエルンに戻ったシシィのため、早速婚礼の準備が始められました。 先ずシシィは、オーストリア皇帝の妃として必要な知識や作法を学ばねばなりませんでした。これとともに、ウィーンの宮廷に対するシシィの不快感と恐怖も強まりました。彼女は、バート・イシュルでの婚約とともに、世界史の舞台に押し出され、プライベートな自由を失ったことに気付いたのです。
1854年4月24日の婚礼とともに、エリーザベトにとって全く新たな人生が始まりました。厳格な式典の数々、大群衆の視線と期待の重圧が、彼女を押しつぶしました。皇后としての最初の公式レセプションで、すっかり消耗した彼女は、涙の発作に襲われ広間を去りました。フランツ=ヨーゼフには、シシィと過ごす時間が殆ど無く、彼女は、たちまち深い孤独に陥りました。 エリーザベトも当初は、彼女に寄せられた期待を満たそうと努力しました。皇帝夫妻は4人の子供をもうけましたが、長女のソフィーは早くも2才で夭折しました。エリーザベトは絶望しましたが、自らの感情を押し殺さねばなりませんでした。皇后としての公式の役割の方が、個人的な感情より重視されたからです。
若き皇后は、不眠症、食欲不振、長く続く咳に悩まされるようになりました。肺病を恐れた医師の勧めにより、彼女はマデイラ島で転地療養することになりました。こうしてシシィは結婚以来初めて、あらゆる責務から解放され、堅苦しい宮廷を遠く離れて、自らの生活を楽しむ機会を得ました。 2年間の転地療養中に奥深い内的変化を体験したエリーザベトは、全く別人としてウィーンの宮廷に戻りました。愛らしく臆病で塞ぎがちな少女は、自覚と誇りに満ちた美女となったのです。
エリーザベトは、その美貌を武器として繰り返し、自らの願望を実現しています。一般的に彼女は、現実の政治には無関心でしたが、生涯に一度だけ、夫の政務に介入しました。彼女の願いは、ハンガリーを解放することだったのです。 エリーザベトは、快活で誇り高いハンガリー人に深い親愛感を抱いていました。1849年に革命運動が鎮圧された後ハンガリーは、ハプスブルク皇帝の絶対主義的支配に苦しんでいました。こうした背景から、彼女は熱烈なハンガリー支持者となり、ハンガリーの主導的政治家とも親交を結んでいました。1866年、フランツ=ヨーゼフはハンガリーとの調停に踏み切り、その歴史的権利を承認して王朝内での独立を認めました。こうしてオーストリア=ハンガリー帝国が成立しましたが、その背後には疑いも無く、エリーザベトの尽力がありました。1867年、ブダペストのマーチャーシュ教会で戴冠式が行われ、エリーザベトもハンガリー女王に即位しました。
エリーザベトは、嫌々ながら皇后としての責務を果たしました。公的な場に出るのは不愉快で、宮廷のセレモニーは重圧でした。更に彼女は、ウィーン宮廷の堅苦しい身分制度と陰謀を嫌悪しました。公的な場に出席するとシシィは、彼女自身の言葉によれば「馬具を付けて引き回される馬」のような苦痛を感じたのです。
皇后はウィーンの宮廷を避け、スポーツ、美容、旅へと逃避しました。 幼少期からエリーザベトが大きな情熱を傾けたのは乗馬でした。既に少女時代、彼女は父親から曲乗りを学びましたが、今や厳しいトレーニングを重ね、当時のヨーロッパでトップを行く最も大胆な女性騎手となりました。彼女の冒険的な乗馬は、しばしば可能な限界に迫るものでした。明らかにエリーザベトは、乗馬という高度のスポーツ分野において、自らの限界に迫ろうとしたのです。その際、彼女は意図的に、極めて危険な場面に身を投じました。
エリーザベトは、当時のヨーロッパで最も美しい女性のひとりとされ、しかも、このことを十分自覚していました。日常生活の大半の時間は、その美貌を守るために費やされたのです。エリーザベトが特に自慢としたのは、殆ど踝(くるぶし)に届く豊かな髪でした。この髪をとかし編み上げるには、毎日2〜3時間が必要でした。 人々から賛嘆された美貌を守るため、エリーザベトは数々の美容法を試みました。彼女は、非常に奇抜な方法をも積極的に実行しています。例えば、皮製のマスクに当てた子牛の生肉でパックしたまま睡眠しました。 エリーザベトは、彼女のスリムなボディーラインを保つため、最大限の努力を払いました。このため、身長172センチの彼女の体重は、生涯45キロから47キロに留まりました。ウエストも、51センチという驚くべき細さでした。 エリーザベトは体重を保つため、様々なダイエットを試みました。その際、最も重要な役割を果たしたのが体重計です。彼女は毎日体重を量り、年とともに、ますます厳格なダイエットを実行しました。もちろん、エリーザベトが生の肉汁を飲んでいたというのは、大袈裟なうわさに過ぎません。アヒルのガラ絞り器を利用した子牛もも肉の汁は、調味・加熱の上、食卓に供されました。細身を保つためエリーザベトが、いつも飢えていたというのも伝説のひとつでしょう。様々の菓子屋からの請求書が示す通り、エリーザベトはチョコレート菓子やアイスクリームが大好きでした。
ボディラインを強く意識し、スポーツを愛好した皇后は、しかし常に医師の治療を受けていました。良く手入れされた歯が、健康な体と美しい容貌に欠かせない要素であることは、彼女自身良く自覚していました。皇后専属の歯医者が用いていた器具や、側近であるフェレンツィ伯爵夫人の手紙から、定期的な治療の様子を知ることができます。
1889年、唯一の息子であるルドルフが悲劇的な自殺を遂げると、エリーザベトは、ますます傷つきやすくなり、他人との接触を嫌って引きこもり、近づきがたい存在となりました。彼女は黒いドレスのみを着用するようになりました。
扇子、ヴェール、日傘は、極く早い時期から、外出の必需品となりました。皇后は、これらによって、人々の好奇の目を避けようとしたのです。生まれつき内気で人目を嫌う彼女の性格は、年とともに強まり、やがて、好奇心に満ちた群集のみならず、彼女の崇拝者や宮廷の役人に対しても、強い恐怖心を抱くようになりました。皇后は喪服に合わせて、黒いビーズと黒玉のアクセサリーを身につけました。これは、決して高価な宝石を使ったものではありません。控え目な素材と、簡素な細工の中に、世を避けて喪に服する人の悲しみが表されています。
エリーザベトは、時とともに、宮廷でも自らの意志を貫くようになり、彼女のイメージに合った生活を始めました。今や彼女は、自ら望むことのみ実行し、皇后たる役割を繰り返し拒否するようになったのです。皇帝夫妻の間柄は疎遠となり、エリーザベトは、皇帝に力添えするため必要な夫への親近感を失っていました。 エリーザベトの側近であったフェステティッチ伯爵夫人は、皇后の生活態度に胸を痛めていました。 「皇后様は夢の世界に浸り、悩むことを日課にしていらっしゃいます。」エリーザベト自身は、際限の無い大海原に憧れ、カモメのように自由に旅することを夢見ていました。 「私はカモメ、陸地に私の故郷は無い・・・」自らの心を紛らわせるため、エリーザベトは長期間の旅行に出掛け、自由に暮らせる土地に避難所を求めました。ブダペスト郊外のゲデレー宮殿、ウィーンのラインツにある狩の館ヘルメスヴィラ、更にエーゲ海に浮かぶコルフ島のアキレイオンなどが、彼女の避難所でした。アキレイオンは、エリーザベト自らの注文で建てられたポンペイ・スタイルのヴィラで、その名前は、彼女お気に入りのギリシャ神話の英雄に因んだものです。ところが皇后は、ここにも安住することが出来ず、ヴィラの売却を考えていました。実際に建物が売却されたのは、彼女の没後でした。
少女時代から詩を書いていたエリーザベトは、ますます、夢想的なポエジーの世界に逃避するようになりました。彼女はホメロスの叙事詩を愛し、崇拝するハインリヒ・ハイネにインスピレーションを得て数多くの詩を書き残しました。その中には、彼女の失望、苦悩、憧れに加え、周囲の人間に対する軽蔑と、ますます深まる孤独感が表されています。 エリーザベトは、シェークスピアの「真夏の夜の夢」に登場する妖精の女王ティタニアに自らを投影するようになりました。他方フランツ=ヨーゼフは、愛する妻のため、ラインツの森の一角にヘルメスヴィラを建設、その寝室には「真夏の夜の夢」をモチーフとする壁画を描かせました。彼女は、このヴィラを「ティタニアの魔法の城」と呼んでいました。
「同じところに坐っているのは嫌」とエリーザベトは書き残しています。 遥かな土地に対する彼女の憧れは、ますます強くなりました。ウィーンから離れれば離れるほど、彼女の心は軽くなりました。健康状態が良くないことを口実に、エリーザベトは大規模な旅行を繰り返しました。本当の目的は、見知らぬ国々と異国の文化に接することだったのです。とりわけ彼女は船旅を愛し、陸地から遥か離れた大海原で、自然に抱かれた快感を味わいました。彼女が愛用した大型ヨットのデッキにはガラス張りのパビリオンがあり、ここからは周囲の風景を見渡すことが出来ました。乗組員が皇后の身を案じるほどの嵐になると、エリーザベトは、パビリオンの椅子に彼女を縛り付けるよう命じました。 「これは、オデュッセウスと同じ方法です。さもないと、波が私を呼び寄せるからです。」
皇后の旅の装備には、63の内容からなる薬箱が含まれていました。その中には、カラシを用いた湿布用の膏薬、ガーゼの包帯、クリーム類、薬の小瓶など多くの薬品に加えて、コカイン注射のセットが見られます。現代の人々にとっては奇妙なことですが、当時は、麻薬類が医薬品として利用されていました。コカインの場合、痙攣を緩和し気分を明るくする効果が知られていたため、月経困難症の場合や更年期における、静脈注射として使用されていたのです。
「旅の目的地が重要なのは、その間に道程(みちのり)が有るからです。もし何処かに到着した後、そこから二度と出発できないなら、天国のように素晴らしいところでも、私には地獄となります。」エリーザベトは、このように書き残しています。彼女は、ますます旅から旅へとさまようようになり、家族と側近の人々も、憂いに沈んだ皇后の身を案ずるようになりました。1897年、末娘マリー=ヴァレリーは日記に次のように記しています。 「困ったことに、ママは以前よりも一層ひとりでいることを好み、悲しい話ばかりするようになった。」また1898年5月の日記には次の文章が見られます。「・・・以前には時々現れるだけだった深い悲しみが、もうママから離れなくなってしまった。今日もママは、度々死にたくなると話していた・・・」
1898年9月、エリーザベトは保養のため、数週間に亙りモントルー近郊のテリテに滞在しました。9月9日、彼女は側近のイルマ・スタライ伯爵夫人を伴いプレニーに足を伸ばし、ロートシルト男爵夫人を訪問しました。その晩エリーザベトはジュネーブに向かいました。ここで一泊し、翌日モントルーへ戻る予定だったのです。いつもの通りエリーザベトは、ホーエネムス伯爵夫人の偽名を使い、お忍びで、レマン湖畔のホテル「ボー・リヴァージュ」に泊まりました。ところが、どこからか「オーストリア皇后滞在」の極秘情報が漏れ、翌日の新聞に報道されました。この記事を読んだ一人が、ルイジ・ルッケーニでした。彼はイタリアのアナーキストで、フランスのオルレアン公を暗殺するためジュネーブに来たのです。土壇場で旅程を変えたオルレアン公はジュネーブには現れませんでしたが、ルッケーニは失望しませんでした。偶然にもオーストリア皇后という素晴らしい犠牲者を見つけたからです。 9月10日の午前中、エリーザベトはお気に入りの菓子店で買い物をしました。モントルーに向かう正午の船に乗るつもりだったのです。船着場へ向かう湖畔の道で待ち伏せていたルッケーニは皇后に飛び掛り、研ぎ澄ましたヤスリで胸を突き刺しました。 エリーザベトは倒れましたが、ただ驚いただけで再び立ち上がりました。単に突き倒されたものと思ったのです。彼女は乗り遅れないため先を急ぎ、乗船した直後に倒れました。彼女の胴着が開けられ、初めて小さな刺し傷が発見されました。船は直ちに引き返し、瀕死の皇后は再びホテルに運ばれましたが、まもなく息を引き取ったのです。 訃報に接したフランツ=ヨーゼフは、側近に対し言葉少なに語りました。「私が、どれほど彼女を愛していたか、君には分かるまい。」エリーザベトの亡骸はウィーンに運ばれ、カプツィーナ墓所に安置されました。その悲劇的な最期によって、彼女は不滅の人となったのです。存命中の彼女に対する批判は影をひそめ、残されたのは、神々しい絶世の美女の思い出だけでした。こうして、シシィ伝説が生まれたのです。
という具合です。実際はもっと長く、全部聞いていると気が滅入ってきます。
仕事に疲れてウツになっていく様を見せつけられたようで、全部見終わった時には精神的にも体力的にもくたくたになってしまいました。
そのためかどうかわかりませんが、そのあとに見学したはずの王宮の記憶があまりありません。
王宮内は宮廷官僚の執務室、ビーダーマイヤー時代の画家ペーター・クラフトの絵が掛かる謁見の大広間、閣僚会議や廷臣会議が開かれた会議室、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ(在位1848-1916)の私室などを見学できます。
フランツ・ヨーゼフは質素な内装が好みということで、部屋の内装にもそれはよく表れていました。

クタクタになって王宮を出ました。青空が目にまぶしいです。

ウィーンミッテ駅から出る空港行きの列車は11:38発ですからあと1時間ほどあります。

時間をつぶすため、トラムに乗ってリンク沿いにあるウィーン市立中央公園に向かいました。

公園に着きました。芝生がきれいです。

公園の象徴であり、ウィーンのガイドブックには必ず出てくるヨハン・シュトラウス像ですが、現在工事中とのこと。
でも工事現場を囲む幕がしゃれていますね。
タイプライターから打ち出されたシュトラウスからのメッセージには、「私にはしばらく休憩が必要です。でも心配無用。すぐに帰ってきます。約束します!」と書いてありました。

ヨハン・シュトラウス像があるはずの台座には何もありません。

その代わりに、ヨハン・シュトラウス像のレプリカが近くに芝生に設置されていました。
なぜ表彰台の上なのか、なぜ2位なのか、疑問は尽きません。

公園をぶらぶらします。ウィーン市民の憩いの場となっている、細長い公園です。

池が見えてきました。

ブルックナーの銅像がありました。この公園にはほかにも著名な音楽家の銅像があります。

公園の池。静かに水をたたえています。

ウィーンもこれで見納めですね。帰国の時間が近づいています。

公園を出てウィーンミッテ駅に向けて歩きました。

セグウェイで観光する人たちがいました。楽そうです。

駅に着きました。時間はまだ11時前。11:38の空港行き特急列車CATに乗る予定だったのですが、1本早い11:08に乗れそうです。いくらチェックイン済みとはいえ、見知らぬ土地の空港で、何があるかわかりませんから、早めの方が安心です。

CAT(シティ・エアポート・トレイン)は2階建ての客車を3両つないだ短い編成です。切符を買って車内に乗り込むと座席は半分程度埋まっていました。
空港へはノンストップですが、あまりスピードを出す様子がありません。結局所要時間18分で11:25ごろに空港到着。
3.6ユーロで乗れる普通列車は30分ちょっとで空港に着きますから、18分で10ユーロは高すぎますね。
ウィーン国際空港はウィーンの玄関口にしては小さな空港で、出国手続きは一瞬で終わってしまい、空港内で時間をつぶす羽目になりました。
余ったユーロも使ってしまおうということで、私は本屋でオーストリアの鉄道雑誌、ドイツのトラム専門誌などを買いました。時刻表はやはり売っていませんでした。
13:30発予定のオーストリア航空便はダブルブッキングがあったりなんだりで出航が30分程度遅れたものの、なんとか無事に離陸しました。
そして成田空港へは翌朝8:00前に到着。あまりの暑さに立ちくらみしそうになりながら、日本に帰ってきた実感をかみしめたのでした。
■ あとがき
これでオーストリア旅行記は終わりです。長い旅行記を最後までお読みいただきありがとうございました。
海外の一人旅は初めてなので正直不安でしたが、終わってみれば特にトラブルもなく、無事に帰国することができました。
不安要素を減らすためホテルはすべて日本からネットで予約し、国鉄乗り放題のユーレイル・オーストリアパスを新宿の「地球の歩き方プラザ」で購入し、全日程の行程をきっちりかっちりと決めてしまいました。
幸いにも不測の事態は起きず、見たいところには全部行きましたし、乗りたい鉄道には全部乗りました。一部SLではなく普通の列車になってしまいましたが、それはそれで違った良さがあります。
また、オーストリアは英語が通じます。
ホテルは日本で印刷してきた英語の予約票を見せればあとは指示に従うだけですし、レストランでは英語かドイツ語のメニューを、ケバブ屋やパン屋では現物を指さして「ダス、ビッテ(これください)」と言えば食事の注文もなんとかなりました。
全体的にオーストリアでは私のつたない英語でもしっかり聞いてくれる親切な人が多かったので、意思疎通に困ることはありませんでした。
あとは何と言っても鉄道が遅れなかったこと。いくら日本で入念な計画を立てたとしても、鉄道が大幅に遅れてしまったら意味がありません。
いくらリカバリー用のプランを用意したと言っても限度があります。ネットで調べるとおおむね正常とはいえ、下手をすると1時間以上遅れることがあるらしいので、この点は運が良かったです。
ただ残念ながら旅行の中盤は天気に恵まれませんでした。この辺はネットの便利なところで、世界各地の週間天気予報をチェックできますから、天気予報をチェックしながら現地で予定を組みなおしました。
こういう時にノートPCがあると便利です。現地の最新情報や天気をチェックできるほか、ブログの更新もできます。重いですが、持っていく価値はありました。
シルバーウィークの航空チケットは高く、現地の交通費や飲食代が思いのほかかかったため、帰国後しばらくはモヤシ生活を余儀なくされましたが、今回の旅行は自分にとってはすばらしい経験になりました。
美しい景色を見て、異国の鉄道に乗って、その土地のおいしいものを食べる。生きていると実感できる瞬間ですね。
世界には美しい景色、美しい建物、不思議な場所が散らばっています。
ガイドブックに載っていない魅力的な場所があちこちに隠れています。
日本では想像もつかないような場所を走る鉄道があります。
街の古びたトラムに乗れば、その土地の息吹を感じることができます。
日本国内のすべての鉄道に乗り、国内47都道府県はほぼ行きつくしました。
そして海の向こうにはまだ見ぬ世界が広がっています。
見たい!知りたい!自分の旅への衝動は止められそうもありません。
また、オフに旅行記を長々と書くと思います。千葉ロッテマリーンズとは関係ありませんが、お付き合いいただければ幸いです。
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オーストリア旅行もついに最終日を迎えました。
今日は午前中にウィーン中心部のホーフブルク王宮を見学し、ウィーンミッテ駅から空港行き列車に乗ってウィーン国際空港に向かいます。
その後13:30発のオーストリア航空の便で帰国の途に就きます。成田到着は翌26日の朝7:35となる予定です。

朝7時に起床。7時半から朝食です。
メニューは充実しており、ハムやソーセージやベーコンや卵焼きやパン。グレープフルーツまでありました。
ゴージャスな部屋でのおいしい食事でした。このホテルには日本人も何人か止まっているようでしたね。
さて、今日はウィーン中心部にあるホーフブルク宮殿を見学してから空港に向かう予定です。宮殿の見学は9時から。
チケットは数日前シェーンブルン宮殿でシシィチケットという共通入場券を買ってありますから、時間的にはまだ余裕があります。
そこで、空港行きの列車が出るウィーンミッテ駅で事前チェックイン手続きをすることにしました。
ウィーン国際空港発着便のチェックインは空港の他ウィーンミッテ駅のCAT(City Airport Train)乗り場に併設されたCAT(ウィーン・シティエアターミナル)の窓口で行うことができます。
オーストリア航空であれば前日夜18:00から22:30までチェックイン可能で、当日は朝5時からチェックインできます。しかも手荷物も預けられます。
空港ではなくウィーン・ミッテ駅で手続きをしてしまえば空港で長い行列に並ぶ必要がありませんし、市内から空港まで手ぶらで移動できますから楽ちんなのです。

問題があるとすればウィーン・ミッテ駅が工事中で分かりにくいこと。
ホテルを7時40分にチェックアウトし、シュテファンプラッツ駅から地下鉄に5分乗ってウィーン・ミッテ駅に到着したものの、どこに向かえばいいのかわかりにくく、ちょっと迷いました。
やっとこさCATへの矢印を見つけたかと思えば、工事中のこんな道を延々と歩かされます。

指示に従って工事現場をうろうろし、本当に空港行きの電車の駅があるのか不安になってきたころ、ようやくCATの入口を見つけました。

建物内はあまり人がいません。空港なら長蛇の列ができるチェックインもここでは一瞬です。紙に印刷したEチケットとパスポートを見せ、スーツケースを預けてチェックイン手続きは無事終了しました。
あとは空港に1時間半ほど前に到着すれば大丈夫です。
CAT City Airport Train

チェックインを済ませ、地下鉄でシュテファンプラッツ駅に戻りました。ここから歩いてホーフブルク宮殿を目指します。
ウィーンの目抜き通りも今日で見納めかと思うと残念です。

15分ほど歩きホーフブルク宮殿に着きました。

まだ9時になっておらず、入口は閉まったままです。
ホーフブルク王宮は13世紀ごろに建設され、その後1918年までハプスブルク家歴代の神聖ローマ皇帝またはオーストリア皇帝の居城となりました。
ハプスブルク家の強大化と領土の拡大に伴って幾度も拡張され、18世紀にはほぼ現在の形になったと言われています。
現在の王宮は博物館として一部が一般開放されているほか、シシィ博物館、銀器コレクションの博物館、オーストリア大統領府、国際会議場、ウイーン少年合唱団がミサで歌う礼拝堂、スペイン乗馬学校といった施設も入っています。
私がこれから見学するのは王宮で使用された銀器コレクションの展示スペースと皇妃エリザベートの人生をたどるシシィ博物館、王宮の見学可能な部分です。
これら3か所はセットになっており、1枚の入場券で見学できます。

入口で日本語のオーディオガイドを借りて中に入りました。まずは銀器コレクションの部屋があります。銀器に限らず王宮内で使用されていた高級食器がこれでもかと飾られています。

ミラノ製のセンターピース。1838年につくられたもので、全長30メートル以上あります。美しい装飾です。

絵皿が並んでいます。どれも見事な絵ばかりです。

銀器コレクションは意外と見ごたえがありました。好きな人にとってはたまらないでしょう。

黄金の燭台です。

ずらりと並ぶ黄金の燭台。迫力があります。

中国や日本など、アジアからも陶磁器を大量に輸入していたそうです。中には買いすぎて借金まみれになり、死後コレクションを売却せざるを得なくなった皇帝もいるのだとか。
銀器コレクションの詳細はホーフブルク宮殿のホームページにて開設されています。
興味のある方はご覧になってください。
ホーフブルク宮殿公式ホームページ
展示物の紹介

銀器コレクションの見学を終え、シシィ博物館と王宮へと進みます。残念ながらここからは撮影禁止のため写真がありません。
シシィ博物館は皇妃エリザベートの波乱の人生をたどり、「天衣無縫に育った美少女が、いかにして、人生に失望し死に憧れる放浪者となった」のかがよくわかるようになっています。
展示されているのは婚姻前の少女時代の服装、婚礼衣装。宮廷での華美なドレス。シシィが身に着けていたアクセサリーのレプリカや肖像画。ダイエットや健康維持のための様々な道具。精神を病んだ後の黒いドレス、旅行に出かける際に乗車した専用車両の内装の再現などです。
面白いものではアイスやチョコレート菓子の請求書などもありました。
ただ、日本語のオーディオガイドが詳細に説明してくれるのですが、その説明にどうも悪意がこもっているような気がします。ホーフブルク宮殿のホームページにオーディオガイドの説明が掲載されていたので、ちょっと抜粋してみましょう。
1854年4月、バイエルン公爵家の姫君エリーザベトがウィーンに到着しました。まだ16才の彼女は、従兄のフランツ=ヨーゼフ皇帝と結婚することになっていたのです。婚礼の後、ホーフブルク王宮を住まいとした彼女は、突然、オーストリアの宮廷生活と直面することになりました。 これからシシィ・ミュージアムにご案内申し上げましょう。次の6つの部屋で、シシィをめぐる神話と真実をご覧ください。
1898年9月10日、悲報がヨーロッパに広がりました。オーストリアのエリーザベト皇后が暗殺されたのです。 エリーザベト皇后の暗殺事件は、周囲から誤解された類稀な女性の波乱に満ちた生涯に終止符を打つものでした。他方、彼女の悲劇的な死は、シシィをめぐる伝説形成に決定的な役割を果たしました。もちろん彼女自身も、存命中の型破りな生活によって自ら伝説を生み出しました。伝説は、どのように形成されたのでしょうか?天衣無縫に育った美少女が、いかにして、人生に失望し死に憧れる放浪者となったのでしょう?これから私たちも、エリーザベト皇后の魂の遍歴をたどりましょう。
前後のボードに展示された新聞の切り抜きは、当時の新聞に掲載された皇后に関する報道を集めたものです。ここから明らかなのは、存命中の彼女が、決して愛され親しまれ新聞のトップを飾る存在ではなかったことです。エリーザベトは、早くから皇后たる公的役割を避け、晩年はウィーンで過ごすことも稀で、殆ど報道されることはありませんでした。また、王朝時代の新聞は厳しく検閲されたので、皇后に対する批判なども不可能でした。他方フランツ=ヨーゼフ皇帝は、勤勉に自らの責務を果たし、「善良な老皇帝」として国民に親しまれていました。従って皇后暗殺の報道においても、国民の同情は、次々と不慮の事故で身内を失った皇帝に集中していました。人々から敬愛される献身的なエリーザベト皇后のイメージは、暗殺事件以降に形成され、この虚像が後世に伝えられました。
エリーザベト皇后の存命中、人々は、身を引いて暮らす「風変わりな」皇后に全く無関心でした。漸く彼女の没後、テロリストに暗殺された悲劇の美女というイメージのマーケッティングが可能となりました。彼女の面影を偲ぶ記念の肖像画、記念のコイン、その他様々の記念品が急速に普及しました。
とりわけ、彼女の物語が映画化されヒットすると、愛される「シシィ」のイメージが全世界に広がりました。その典型的な例は、1950年代にエルンスト・マリシュカが制作した3部作で、シシィを演じたロミー・シュナイダーは一躍、映画界のスターとなりました。この映画に登場する、若く屈託の無い愛すべきシシィのイメージは、当時から今日に至るまで広く普及しています。けれども、歴史上のシシィと合致するのは、映画のごく一部に過ぎません。これから、歴史上のエリーザベトを訪ねることにいたしましょう。
エリーザベトは1837年12月24日、ミュンヘンで生まれました。父はバイエルン公爵マクシミリアン、母はバイエルン王の娘ルドヴィカです。家族からシシィの愛称で呼ばれたエリーザベトは、多くの点で父親に似ていました。庶民的な公爵は、自然を愛し、熱心な馬術愛好家で、好んで旅に出掛けました。少女時代のシシィは、ミュンヘンの宮殿とシュタルンベルク湖畔のポッセンホーフェン城に住み、堅苦しい宮廷の作法や儀式とは無縁に伸び伸びと育ちました。2才年下の弟カール・テオドールは、家族の間で「ガッケル」と呼ばれていました。エリーザベトは生涯にわたって、この弟と特に親密な関係にありました。
1853年夏、シシィの母と、ネネの愛称で呼ばれた姉ヘレネがバート・イシュルへ向かい、シシィも同行しました。これはフランツ=ヨーゼフ皇帝の23才の誕生日を祝うためでしたが、本当の目的は、姉妹である双方の母親が計画した皇帝の花嫁選びでした。2人の母親の計画では、フランツ=ヨーゼフとネネが婚約するはずでした。母親の予定とは裏腹に、フランツ=ヨーゼフ皇帝は15才のシシィに一目惚れしたのです。 こうしてフランツ=ヨーゼフはシシィに求婚しました。返事を求められたシシィは、わっと泣き出しました。「どうして、彼は私のことばかり考えるのでしょう。私は取るに足らない人間です。私も皇帝が大好きです。ああ、彼が皇帝でなかったら良いのに! 8月19日には、正式の婚約式が行われました。突然人々の視線を一身に集めたシシィは、おびえて殆ど無言でしたが、他方、フランツ=ヨーゼフは有頂天になりました。皇帝の母ソフィー女大公は、シシィの置かれた立場を良く理解していました。一般には、女大公が息子の選択に反対だったとされますが、実際には、幸せそうな息子の様子を見て、彼女も2人の婚約を喜んでいました。
イシュルでの婚約後、バイエルンに戻ったシシィのため、早速婚礼の準備が始められました。 先ずシシィは、オーストリア皇帝の妃として必要な知識や作法を学ばねばなりませんでした。これとともに、ウィーンの宮廷に対するシシィの不快感と恐怖も強まりました。彼女は、バート・イシュルでの婚約とともに、世界史の舞台に押し出され、プライベートな自由を失ったことに気付いたのです。
1854年4月24日の婚礼とともに、エリーザベトにとって全く新たな人生が始まりました。厳格な式典の数々、大群衆の視線と期待の重圧が、彼女を押しつぶしました。皇后としての最初の公式レセプションで、すっかり消耗した彼女は、涙の発作に襲われ広間を去りました。フランツ=ヨーゼフには、シシィと過ごす時間が殆ど無く、彼女は、たちまち深い孤独に陥りました。 エリーザベトも当初は、彼女に寄せられた期待を満たそうと努力しました。皇帝夫妻は4人の子供をもうけましたが、長女のソフィーは早くも2才で夭折しました。エリーザベトは絶望しましたが、自らの感情を押し殺さねばなりませんでした。皇后としての公式の役割の方が、個人的な感情より重視されたからです。
若き皇后は、不眠症、食欲不振、長く続く咳に悩まされるようになりました。肺病を恐れた医師の勧めにより、彼女はマデイラ島で転地療養することになりました。こうしてシシィは結婚以来初めて、あらゆる責務から解放され、堅苦しい宮廷を遠く離れて、自らの生活を楽しむ機会を得ました。 2年間の転地療養中に奥深い内的変化を体験したエリーザベトは、全く別人としてウィーンの宮廷に戻りました。愛らしく臆病で塞ぎがちな少女は、自覚と誇りに満ちた美女となったのです。
エリーザベトは、その美貌を武器として繰り返し、自らの願望を実現しています。一般的に彼女は、現実の政治には無関心でしたが、生涯に一度だけ、夫の政務に介入しました。彼女の願いは、ハンガリーを解放することだったのです。 エリーザベトは、快活で誇り高いハンガリー人に深い親愛感を抱いていました。1849年に革命運動が鎮圧された後ハンガリーは、ハプスブルク皇帝の絶対主義的支配に苦しんでいました。こうした背景から、彼女は熱烈なハンガリー支持者となり、ハンガリーの主導的政治家とも親交を結んでいました。1866年、フランツ=ヨーゼフはハンガリーとの調停に踏み切り、その歴史的権利を承認して王朝内での独立を認めました。こうしてオーストリア=ハンガリー帝国が成立しましたが、その背後には疑いも無く、エリーザベトの尽力がありました。1867年、ブダペストのマーチャーシュ教会で戴冠式が行われ、エリーザベトもハンガリー女王に即位しました。
エリーザベトは、嫌々ながら皇后としての責務を果たしました。公的な場に出るのは不愉快で、宮廷のセレモニーは重圧でした。更に彼女は、ウィーン宮廷の堅苦しい身分制度と陰謀を嫌悪しました。公的な場に出席するとシシィは、彼女自身の言葉によれば「馬具を付けて引き回される馬」のような苦痛を感じたのです。
皇后はウィーンの宮廷を避け、スポーツ、美容、旅へと逃避しました。 幼少期からエリーザベトが大きな情熱を傾けたのは乗馬でした。既に少女時代、彼女は父親から曲乗りを学びましたが、今や厳しいトレーニングを重ね、当時のヨーロッパでトップを行く最も大胆な女性騎手となりました。彼女の冒険的な乗馬は、しばしば可能な限界に迫るものでした。明らかにエリーザベトは、乗馬という高度のスポーツ分野において、自らの限界に迫ろうとしたのです。その際、彼女は意図的に、極めて危険な場面に身を投じました。
エリーザベトは、当時のヨーロッパで最も美しい女性のひとりとされ、しかも、このことを十分自覚していました。日常生活の大半の時間は、その美貌を守るために費やされたのです。エリーザベトが特に自慢としたのは、殆ど踝(くるぶし)に届く豊かな髪でした。この髪をとかし編み上げるには、毎日2〜3時間が必要でした。 人々から賛嘆された美貌を守るため、エリーザベトは数々の美容法を試みました。彼女は、非常に奇抜な方法をも積極的に実行しています。例えば、皮製のマスクに当てた子牛の生肉でパックしたまま睡眠しました。 エリーザベトは、彼女のスリムなボディーラインを保つため、最大限の努力を払いました。このため、身長172センチの彼女の体重は、生涯45キロから47キロに留まりました。ウエストも、51センチという驚くべき細さでした。 エリーザベトは体重を保つため、様々なダイエットを試みました。その際、最も重要な役割を果たしたのが体重計です。彼女は毎日体重を量り、年とともに、ますます厳格なダイエットを実行しました。もちろん、エリーザベトが生の肉汁を飲んでいたというのは、大袈裟なうわさに過ぎません。アヒルのガラ絞り器を利用した子牛もも肉の汁は、調味・加熱の上、食卓に供されました。細身を保つためエリーザベトが、いつも飢えていたというのも伝説のひとつでしょう。様々の菓子屋からの請求書が示す通り、エリーザベトはチョコレート菓子やアイスクリームが大好きでした。
ボディラインを強く意識し、スポーツを愛好した皇后は、しかし常に医師の治療を受けていました。良く手入れされた歯が、健康な体と美しい容貌に欠かせない要素であることは、彼女自身良く自覚していました。皇后専属の歯医者が用いていた器具や、側近であるフェレンツィ伯爵夫人の手紙から、定期的な治療の様子を知ることができます。
1889年、唯一の息子であるルドルフが悲劇的な自殺を遂げると、エリーザベトは、ますます傷つきやすくなり、他人との接触を嫌って引きこもり、近づきがたい存在となりました。彼女は黒いドレスのみを着用するようになりました。
扇子、ヴェール、日傘は、極く早い時期から、外出の必需品となりました。皇后は、これらによって、人々の好奇の目を避けようとしたのです。生まれつき内気で人目を嫌う彼女の性格は、年とともに強まり、やがて、好奇心に満ちた群集のみならず、彼女の崇拝者や宮廷の役人に対しても、強い恐怖心を抱くようになりました。皇后は喪服に合わせて、黒いビーズと黒玉のアクセサリーを身につけました。これは、決して高価な宝石を使ったものではありません。控え目な素材と、簡素な細工の中に、世を避けて喪に服する人の悲しみが表されています。
エリーザベトは、時とともに、宮廷でも自らの意志を貫くようになり、彼女のイメージに合った生活を始めました。今や彼女は、自ら望むことのみ実行し、皇后たる役割を繰り返し拒否するようになったのです。皇帝夫妻の間柄は疎遠となり、エリーザベトは、皇帝に力添えするため必要な夫への親近感を失っていました。 エリーザベトの側近であったフェステティッチ伯爵夫人は、皇后の生活態度に胸を痛めていました。 「皇后様は夢の世界に浸り、悩むことを日課にしていらっしゃいます。」エリーザベト自身は、際限の無い大海原に憧れ、カモメのように自由に旅することを夢見ていました。 「私はカモメ、陸地に私の故郷は無い・・・」自らの心を紛らわせるため、エリーザベトは長期間の旅行に出掛け、自由に暮らせる土地に避難所を求めました。ブダペスト郊外のゲデレー宮殿、ウィーンのラインツにある狩の館ヘルメスヴィラ、更にエーゲ海に浮かぶコルフ島のアキレイオンなどが、彼女の避難所でした。アキレイオンは、エリーザベト自らの注文で建てられたポンペイ・スタイルのヴィラで、その名前は、彼女お気に入りのギリシャ神話の英雄に因んだものです。ところが皇后は、ここにも安住することが出来ず、ヴィラの売却を考えていました。実際に建物が売却されたのは、彼女の没後でした。
少女時代から詩を書いていたエリーザベトは、ますます、夢想的なポエジーの世界に逃避するようになりました。彼女はホメロスの叙事詩を愛し、崇拝するハインリヒ・ハイネにインスピレーションを得て数多くの詩を書き残しました。その中には、彼女の失望、苦悩、憧れに加え、周囲の人間に対する軽蔑と、ますます深まる孤独感が表されています。 エリーザベトは、シェークスピアの「真夏の夜の夢」に登場する妖精の女王ティタニアに自らを投影するようになりました。他方フランツ=ヨーゼフは、愛する妻のため、ラインツの森の一角にヘルメスヴィラを建設、その寝室には「真夏の夜の夢」をモチーフとする壁画を描かせました。彼女は、このヴィラを「ティタニアの魔法の城」と呼んでいました。
「同じところに坐っているのは嫌」とエリーザベトは書き残しています。 遥かな土地に対する彼女の憧れは、ますます強くなりました。ウィーンから離れれば離れるほど、彼女の心は軽くなりました。健康状態が良くないことを口実に、エリーザベトは大規模な旅行を繰り返しました。本当の目的は、見知らぬ国々と異国の文化に接することだったのです。とりわけ彼女は船旅を愛し、陸地から遥か離れた大海原で、自然に抱かれた快感を味わいました。彼女が愛用した大型ヨットのデッキにはガラス張りのパビリオンがあり、ここからは周囲の風景を見渡すことが出来ました。乗組員が皇后の身を案じるほどの嵐になると、エリーザベトは、パビリオンの椅子に彼女を縛り付けるよう命じました。 「これは、オデュッセウスと同じ方法です。さもないと、波が私を呼び寄せるからです。」
皇后の旅の装備には、63の内容からなる薬箱が含まれていました。その中には、カラシを用いた湿布用の膏薬、ガーゼの包帯、クリーム類、薬の小瓶など多くの薬品に加えて、コカイン注射のセットが見られます。現代の人々にとっては奇妙なことですが、当時は、麻薬類が医薬品として利用されていました。コカインの場合、痙攣を緩和し気分を明るくする効果が知られていたため、月経困難症の場合や更年期における、静脈注射として使用されていたのです。
「旅の目的地が重要なのは、その間に道程(みちのり)が有るからです。もし何処かに到着した後、そこから二度と出発できないなら、天国のように素晴らしいところでも、私には地獄となります。」エリーザベトは、このように書き残しています。彼女は、ますます旅から旅へとさまようようになり、家族と側近の人々も、憂いに沈んだ皇后の身を案ずるようになりました。1897年、末娘マリー=ヴァレリーは日記に次のように記しています。 「困ったことに、ママは以前よりも一層ひとりでいることを好み、悲しい話ばかりするようになった。」また1898年5月の日記には次の文章が見られます。「・・・以前には時々現れるだけだった深い悲しみが、もうママから離れなくなってしまった。今日もママは、度々死にたくなると話していた・・・」
1898年9月、エリーザベトは保養のため、数週間に亙りモントルー近郊のテリテに滞在しました。9月9日、彼女は側近のイルマ・スタライ伯爵夫人を伴いプレニーに足を伸ばし、ロートシルト男爵夫人を訪問しました。その晩エリーザベトはジュネーブに向かいました。ここで一泊し、翌日モントルーへ戻る予定だったのです。いつもの通りエリーザベトは、ホーエネムス伯爵夫人の偽名を使い、お忍びで、レマン湖畔のホテル「ボー・リヴァージュ」に泊まりました。ところが、どこからか「オーストリア皇后滞在」の極秘情報が漏れ、翌日の新聞に報道されました。この記事を読んだ一人が、ルイジ・ルッケーニでした。彼はイタリアのアナーキストで、フランスのオルレアン公を暗殺するためジュネーブに来たのです。土壇場で旅程を変えたオルレアン公はジュネーブには現れませんでしたが、ルッケーニは失望しませんでした。偶然にもオーストリア皇后という素晴らしい犠牲者を見つけたからです。 9月10日の午前中、エリーザベトはお気に入りの菓子店で買い物をしました。モントルーに向かう正午の船に乗るつもりだったのです。船着場へ向かう湖畔の道で待ち伏せていたルッケーニは皇后に飛び掛り、研ぎ澄ましたヤスリで胸を突き刺しました。 エリーザベトは倒れましたが、ただ驚いただけで再び立ち上がりました。単に突き倒されたものと思ったのです。彼女は乗り遅れないため先を急ぎ、乗船した直後に倒れました。彼女の胴着が開けられ、初めて小さな刺し傷が発見されました。船は直ちに引き返し、瀕死の皇后は再びホテルに運ばれましたが、まもなく息を引き取ったのです。 訃報に接したフランツ=ヨーゼフは、側近に対し言葉少なに語りました。「私が、どれほど彼女を愛していたか、君には分かるまい。」エリーザベトの亡骸はウィーンに運ばれ、カプツィーナ墓所に安置されました。その悲劇的な最期によって、彼女は不滅の人となったのです。存命中の彼女に対する批判は影をひそめ、残されたのは、神々しい絶世の美女の思い出だけでした。こうして、シシィ伝説が生まれたのです。
という具合です。実際はもっと長く、全部聞いていると気が滅入ってきます。
仕事に疲れてウツになっていく様を見せつけられたようで、全部見終わった時には精神的にも体力的にもくたくたになってしまいました。
そのためかどうかわかりませんが、そのあとに見学したはずの王宮の記憶があまりありません。
王宮内は宮廷官僚の執務室、ビーダーマイヤー時代の画家ペーター・クラフトの絵が掛かる謁見の大広間、閣僚会議や廷臣会議が開かれた会議室、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ(在位1848-1916)の私室などを見学できます。
フランツ・ヨーゼフは質素な内装が好みということで、部屋の内装にもそれはよく表れていました。

クタクタになって王宮を出ました。青空が目にまぶしいです。

ウィーンミッテ駅から出る空港行きの列車は11:38発ですからあと1時間ほどあります。

時間をつぶすため、トラムに乗ってリンク沿いにあるウィーン市立中央公園に向かいました。

公園に着きました。芝生がきれいです。

公園の象徴であり、ウィーンのガイドブックには必ず出てくるヨハン・シュトラウス像ですが、現在工事中とのこと。
でも工事現場を囲む幕がしゃれていますね。
タイプライターから打ち出されたシュトラウスからのメッセージには、「私にはしばらく休憩が必要です。でも心配無用。すぐに帰ってきます。約束します!」と書いてありました。

ヨハン・シュトラウス像があるはずの台座には何もありません。

その代わりに、ヨハン・シュトラウス像のレプリカが近くに芝生に設置されていました。
なぜ表彰台の上なのか、なぜ2位なのか、疑問は尽きません。

公園をぶらぶらします。ウィーン市民の憩いの場となっている、細長い公園です。

池が見えてきました。

ブルックナーの銅像がありました。この公園にはほかにも著名な音楽家の銅像があります。

公園の池。静かに水をたたえています。

ウィーンもこれで見納めですね。帰国の時間が近づいています。

公園を出てウィーンミッテ駅に向けて歩きました。

セグウェイで観光する人たちがいました。楽そうです。

駅に着きました。時間はまだ11時前。11:38の空港行き特急列車CATに乗る予定だったのですが、1本早い11:08に乗れそうです。いくらチェックイン済みとはいえ、見知らぬ土地の空港で、何があるかわかりませんから、早めの方が安心です。

CAT(シティ・エアポート・トレイン)は2階建ての客車を3両つないだ短い編成です。切符を買って車内に乗り込むと座席は半分程度埋まっていました。
空港へはノンストップですが、あまりスピードを出す様子がありません。結局所要時間18分で11:25ごろに空港到着。
3.6ユーロで乗れる普通列車は30分ちょっとで空港に着きますから、18分で10ユーロは高すぎますね。
ウィーン国際空港はウィーンの玄関口にしては小さな空港で、出国手続きは一瞬で終わってしまい、空港内で時間をつぶす羽目になりました。
余ったユーロも使ってしまおうということで、私は本屋でオーストリアの鉄道雑誌、ドイツのトラム専門誌などを買いました。時刻表はやはり売っていませんでした。
13:30発予定のオーストリア航空便はダブルブッキングがあったりなんだりで出航が30分程度遅れたものの、なんとか無事に離陸しました。
そして成田空港へは翌朝8:00前に到着。あまりの暑さに立ちくらみしそうになりながら、日本に帰ってきた実感をかみしめたのでした。
■ あとがき
これでオーストリア旅行記は終わりです。長い旅行記を最後までお読みいただきありがとうございました。
海外の一人旅は初めてなので正直不安でしたが、終わってみれば特にトラブルもなく、無事に帰国することができました。
不安要素を減らすためホテルはすべて日本からネットで予約し、国鉄乗り放題のユーレイル・オーストリアパスを新宿の「地球の歩き方プラザ」で購入し、全日程の行程をきっちりかっちりと決めてしまいました。
幸いにも不測の事態は起きず、見たいところには全部行きましたし、乗りたい鉄道には全部乗りました。一部SLではなく普通の列車になってしまいましたが、それはそれで違った良さがあります。
また、オーストリアは英語が通じます。
ホテルは日本で印刷してきた英語の予約票を見せればあとは指示に従うだけですし、レストランでは英語かドイツ語のメニューを、ケバブ屋やパン屋では現物を指さして「ダス、ビッテ(これください)」と言えば食事の注文もなんとかなりました。
全体的にオーストリアでは私のつたない英語でもしっかり聞いてくれる親切な人が多かったので、意思疎通に困ることはありませんでした。
あとは何と言っても鉄道が遅れなかったこと。いくら日本で入念な計画を立てたとしても、鉄道が大幅に遅れてしまったら意味がありません。
いくらリカバリー用のプランを用意したと言っても限度があります。ネットで調べるとおおむね正常とはいえ、下手をすると1時間以上遅れることがあるらしいので、この点は運が良かったです。
ただ残念ながら旅行の中盤は天気に恵まれませんでした。この辺はネットの便利なところで、世界各地の週間天気予報をチェックできますから、天気予報をチェックしながら現地で予定を組みなおしました。
こういう時にノートPCがあると便利です。現地の最新情報や天気をチェックできるほか、ブログの更新もできます。重いですが、持っていく価値はありました。
シルバーウィークの航空チケットは高く、現地の交通費や飲食代が思いのほかかかったため、帰国後しばらくはモヤシ生活を余儀なくされましたが、今回の旅行は自分にとってはすばらしい経験になりました。
美しい景色を見て、異国の鉄道に乗って、その土地のおいしいものを食べる。生きていると実感できる瞬間ですね。
世界には美しい景色、美しい建物、不思議な場所が散らばっています。
ガイドブックに載っていない魅力的な場所があちこちに隠れています。
日本では想像もつかないような場所を走る鉄道があります。
街の古びたトラムに乗れば、その土地の息吹を感じることができます。
日本国内のすべての鉄道に乗り、国内47都道府県はほぼ行きつくしました。
そして海の向こうにはまだ見ぬ世界が広がっています。
見たい!知りたい!自分の旅への衝動は止められそうもありません。
また、オフに旅行記を長々と書くと思います。千葉ロッテマリーンズとは関係ありませんが、お付き合いいただければ幸いです。
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終わってしまうのが寂しいです。
これからも旅行記期待しています!
ありがとうございました!!