
ポルトガル旅行記の第26回です。
6日目の9月20日はリスボンを観光します。
まるで宮殿のように壮麗なジェロニモス修道院を見学しました。
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■ 6日目 2012年9月20日 木曜日

テージョ川沿いにあるベレンの塔と発見のモニュメントを見学した後は、線路を渡ってジェロニモス修道院を見学しようと思います。

ジェロニモス修道院前の広大な庭園を歩き、入口に向かいました。

まるで宮殿のように壮麗なジェロニモス修道院はポルトガルが大航海時代に香辛料貿易などによって得た富が大量につぎ込まれました。
エンリケ航海王子やインド航路路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマの偉業をたたえるべく、マヌエル1世の命により1502年から建設が始まったのですが、その後紆余曲折があって完成には約300年かかっています。
現在はサンタマリア教会や回廊などが見学可能。世界遺産にも指定されているリスボンを代表する観光スポットとなっています。

道路を渡ります。およそ修道院のイメージにそぐわない豪華絢爛な建物ですね。

美しい装飾が施された南門。

非常に精巧にできています。

ジェロニモス修道院前の広場。観光客であふれかえっています。
入口となっている西門も大変混雑しており、入場にはかなり並びました。
ちなみにリスボンカードを持っていれば入場無料です。

修道院内にあるサンタ・マリア教会。天井が高く、独特の装飾です。

ずいぶんと広い教会ですね。

棺の周りに観光客が集まっています。ヴァスコ・ダ・ガマの棺なのだそうです。

太い柱に細かい装飾が施されています。

美しいステンドグラス。

あまりの迫力に圧倒されるばかり。大航海時代の栄華を今に伝えています。
ジェロニモス修道院には天正遣欧使節団も訪れたと言います。彼らの驚きは想像に難くありません。

熱心にお祈りする人、観光に熱中して写真を撮りまくる人。
同じ欧米人でも態度が異なります。カトリックかプロテスタントかで違うのでしょう。ポルトガルは熱心なカトリックが多いのだそうです。

サンタ・マリア教会の入口方向を望みます。バラ窓から光が降り注いでいました。

主祭壇。祭壇の後ろに絵画が飾られています。こうした形は珍しいです。

聖母マリアと夫ヨセフの像です。花嫁衣裳を来たマリア像は初めて見ました。

15分ほど教会内を見学して、回廊の見学に向かいました。

ジェロニモス修道院のもう一つの見どころがこの回廊です。

回廊は石灰岩で作られており、マヌエル様式の美しい装飾が施されています。

回廊内をゆっくりと歩きます。

柱の装飾。ちょっとゴテゴテしているようにも感じます。

マヌエル様式の特徴の一つが、こうした海をモチーフとした装飾の数々です。柱の上に貝やサンゴの装飾が施されています。

それにしても見事ですね。

感嘆しつつ回廊を一周しました。

美しいです。この回廊を作るのにどれだけのお金と時間がつぎ込まれたのでしょうか。

中庭の芝生に出てみました。

帆船の装飾です。これぞ大航海時代です。

こちらは食堂です。壁面には美しいアズレージョがあります。

階段を上がって回廊の2階へ。

2階もまた広い回廊となっています。

2階から見下ろす中庭。

ちょっとした資料室がありました。

ポルトガルと世界の歴史について英語で書かれた大きな年表が展示されています。

1543年、ポルトガル人が種子島に漂着。ここから日本の歴史は大きく動き始めました。
そういえば発見のモニュメント前の世界地図では日本への到達を1541年としていますが、ジェロニモス修道院では1543年としていますね。統一しないのでしょうか。

そして1637年には「Shimabara revolution」とあります。
島原革命?一瞬何のことかわかりませんでした。
「Shimabara revolution」、すなわち島原の乱です。
島原の乱は単なる農民一揆でも宗教戦争でもありません。
重税に耐えかねた領民や、弾圧に反発するキリシタンや、改易や転封されたキリシタン大名の遺臣らが集まって起こした複合的な要素に基づく大規模な反乱でであり、島原の乱の英語訳も反乱を意味する「Shimabara Rebellion」となっています。
しかし、ポルトガルのカトリック教会側から見ればそうではなかったのですね。反乱ではなく革命。天草の乱はキリシタンによる革命なのです。
一説によると原城に立てこもった一揆軍にはポルトガルからの援軍を当てにしていたとのことですし、また幕府軍はオランダに依頼してオランダ船による原城砲撃を行わせています。当時ポルトガルとオランダは蘭葡戦争中であり、島原の乱は両国による代理戦争という側面があったのかもしれません。
いずれにせよ、これは立ち場が変われば見方も変わるという好例です。ポルトガルでは革命扱いされている島原の乱。私は新鮮な驚きを感じつつ展示室を出ました。

2階部分の回廊を一通り歩き、ジェロニモス修道院を出ました。
見学には1時間ほどかかり、現在12:10を過ぎています。

午前中はオビドス・ナザレで一緒になった女の子と同行しています。
彼女は夕方の便で帰国するそうですからあまり時間がありません。
ジェロニモス修道院の次は「パステイス・デ・べレン」というエッグタルトで有名な店に行ってみました。
看板は小さいですが、行列ができているのですぐにわかります。

ポルトガルではエッグタルトのことを「ナタ」といい、特にこの「パステイス・デ・ベレン」で売られている「パステイス・デ・べレン」は、ジェロニモス修道院の修道女が考案したレシピを忠実に守っていることで知られています。
とてもおいしいらしいので期待しつつ順番を待ちました。
ものすごい行列ですが店員がてきぱきとお客をさばいています。1個1.65ユーロ。店内で食べるか外で食べるかを選ぶことができます。

私は3つ買い、近くの公園で食べることにしました。

箱から取り出してみます。箱に入っていた砂糖とシナモンの袋を開け、ナタにまぶして食べるとびっくり!
ものすごくおいしいです。中がトロトロで、濃厚で、かつ甘々。お腹も結構膨れました。
時刻は12:45になろうとしています。ナタを昼食代わりに平らげた後は、リスボンを代表する展望台、サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台に行ってみました。
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テージョ川沿いにあるベレンの塔と発見のモニュメントを見学した後は、線路を渡ってジェロニモス修道院を見学しようと思います。

ジェロニモス修道院前の広大な庭園を歩き、入口に向かいました。

まるで宮殿のように壮麗なジェロニモス修道院はポルトガルが大航海時代に香辛料貿易などによって得た富が大量につぎ込まれました。
エンリケ航海王子やインド航路路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマの偉業をたたえるべく、マヌエル1世の命により1502年から建設が始まったのですが、その後紆余曲折があって完成には約300年かかっています。
現在はサンタマリア教会や回廊などが見学可能。世界遺産にも指定されているリスボンを代表する観光スポットとなっています。

道路を渡ります。およそ修道院のイメージにそぐわない豪華絢爛な建物ですね。

美しい装飾が施された南門。

非常に精巧にできています。

ジェロニモス修道院前の広場。観光客であふれかえっています。
入口となっている西門も大変混雑しており、入場にはかなり並びました。
ちなみにリスボンカードを持っていれば入場無料です。

修道院内にあるサンタ・マリア教会。天井が高く、独特の装飾です。

ずいぶんと広い教会ですね。

棺の周りに観光客が集まっています。ヴァスコ・ダ・ガマの棺なのだそうです。

太い柱に細かい装飾が施されています。

美しいステンドグラス。

あまりの迫力に圧倒されるばかり。大航海時代の栄華を今に伝えています。
ジェロニモス修道院には天正遣欧使節団も訪れたと言います。彼らの驚きは想像に難くありません。

熱心にお祈りする人、観光に熱中して写真を撮りまくる人。
同じ欧米人でも態度が異なります。カトリックかプロテスタントかで違うのでしょう。ポルトガルは熱心なカトリックが多いのだそうです。

サンタ・マリア教会の入口方向を望みます。バラ窓から光が降り注いでいました。

主祭壇。祭壇の後ろに絵画が飾られています。こうした形は珍しいです。

聖母マリアと夫ヨセフの像です。花嫁衣裳を来たマリア像は初めて見ました。

15分ほど教会内を見学して、回廊の見学に向かいました。

ジェロニモス修道院のもう一つの見どころがこの回廊です。

回廊は石灰岩で作られており、マヌエル様式の美しい装飾が施されています。

回廊内をゆっくりと歩きます。

柱の装飾。ちょっとゴテゴテしているようにも感じます。

マヌエル様式の特徴の一つが、こうした海をモチーフとした装飾の数々です。柱の上に貝やサンゴの装飾が施されています。

それにしても見事ですね。

感嘆しつつ回廊を一周しました。

美しいです。この回廊を作るのにどれだけのお金と時間がつぎ込まれたのでしょうか。

中庭の芝生に出てみました。

帆船の装飾です。これぞ大航海時代です。

こちらは食堂です。壁面には美しいアズレージョがあります。

階段を上がって回廊の2階へ。

2階もまた広い回廊となっています。

2階から見下ろす中庭。

ちょっとした資料室がありました。

ポルトガルと世界の歴史について英語で書かれた大きな年表が展示されています。

1543年、ポルトガル人が種子島に漂着。ここから日本の歴史は大きく動き始めました。
そういえば発見のモニュメント前の世界地図では日本への到達を1541年としていますが、ジェロニモス修道院では1543年としていますね。統一しないのでしょうか。

そして1637年には「Shimabara revolution」とあります。
島原革命?一瞬何のことかわかりませんでした。
「Shimabara revolution」、すなわち島原の乱です。
島原の乱は単なる農民一揆でも宗教戦争でもありません。
重税に耐えかねた領民や、弾圧に反発するキリシタンや、改易や転封されたキリシタン大名の遺臣らが集まって起こした複合的な要素に基づく大規模な反乱でであり、島原の乱の英語訳も反乱を意味する「Shimabara Rebellion」となっています。
しかし、ポルトガルのカトリック教会側から見ればそうではなかったのですね。反乱ではなく革命。天草の乱はキリシタンによる革命なのです。
一説によると原城に立てこもった一揆軍にはポルトガルからの援軍を当てにしていたとのことですし、また幕府軍はオランダに依頼してオランダ船による原城砲撃を行わせています。当時ポルトガルとオランダは蘭葡戦争中であり、島原の乱は両国による代理戦争という側面があったのかもしれません。
いずれにせよ、これは立ち場が変われば見方も変わるという好例です。ポルトガルでは革命扱いされている島原の乱。私は新鮮な驚きを感じつつ展示室を出ました。

2階部分の回廊を一通り歩き、ジェロニモス修道院を出ました。
見学には1時間ほどかかり、現在12:10を過ぎています。

午前中はオビドス・ナザレで一緒になった女の子と同行しています。
彼女は夕方の便で帰国するそうですからあまり時間がありません。
ジェロニモス修道院の次は「パステイス・デ・べレン」というエッグタルトで有名な店に行ってみました。
看板は小さいですが、行列ができているのですぐにわかります。

ポルトガルではエッグタルトのことを「ナタ」といい、特にこの「パステイス・デ・ベレン」で売られている「パステイス・デ・べレン」は、ジェロニモス修道院の修道女が考案したレシピを忠実に守っていることで知られています。
とてもおいしいらしいので期待しつつ順番を待ちました。
ものすごい行列ですが店員がてきぱきとお客をさばいています。1個1.65ユーロ。店内で食べるか外で食べるかを選ぶことができます。

私は3つ買い、近くの公園で食べることにしました。

箱から取り出してみます。箱に入っていた砂糖とシナモンの袋を開け、ナタにまぶして食べるとびっくり!
ものすごくおいしいです。中がトロトロで、濃厚で、かつ甘々。お腹も結構膨れました。
時刻は12:45になろうとしています。ナタを昼食代わりに平らげた後は、リスボンを代表する展望台、サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台に行ってみました。
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なんかすごい。
1640年ごろまでスペイン・ハプスブルグ朝支配(オーストリーの分家)だったポルトガル(カトリック)対1590年ごろまでハプスブルグ朝支配のオランダ(カルヴァン派)の代理戦争だったわけですね。