通算400勝を挙げた伝説の投手にして、ロッテの監督を2度務めた金田正一氏が亡くなられました。
不滅の400勝 金田正一さん死去 86歳 穏やかに 達成感のある顔で…(スポニチ)
井口監督らロッテが金田氏へ黙とう「パワフルな方」(ニッカン)
教え子小宮山氏畏敬「298敗すごい」金田さん悼む(ニッカン)
ロッテをパ・リーグ優勝と日本一に導いた監督は長い歴史の中でたった2人しかいません。
1974年の金田正一氏、そして2005年のボビー・バレンタイン氏です。
金田氏は人気のないパ・リーグをなんとか盛り上げようといろいろ尽力されました。
型破りなように見えて、誰よりも自己管理に厳しい選手。
こんな選手は二度と出てこないでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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不滅の400勝 金田正一さん死去 86歳 穏やかに 達成感のある顔で…(スポニチ)
プロ野球で唯一の400勝を達成するなど史上最高の左腕投手と呼ばれ、ロッテの監督も務めた金田正一(かねだ・まさいち)氏が6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため、都内の病院で死去した。86歳。通夜・告別式は近親者のみで行われる。喪主は長男賢一(けんいち)氏。後日「お別れの会」を行う予定だ。
「カネやん」の愛称で親しまれたレジェンドがこの世を去った。都内の自宅前で報道陣に対応した長男で俳優の賢一(58)によると、前日はラグビーW杯「日本―サモア戦」を家族と一緒にテレビ観戦。「俺たちがワーッとか声を上げるのを、聞いてるだけだったと思うけど」。そして、この日早朝、娘2人にみとられながら息を引き取った。最期の様子については「穏やかですよ。とても達成感のある顔って言ったらいいのかな。とにかくすっとした顔」と明かした。
7月中旬に都内の自宅で心筋梗塞で倒れた。金田氏は「本当に死ぬかと思った」と振り返り、その後も入退院を繰り返したが、地上波で巨人戦が中継されるときは、よく観戦していたという。昨年10月にはロッテで活躍した実弟の留広氏が71歳で死去。その際に「俺も、長くはないよ」と冗談めかしていたが、伝説の左腕も年齢には勝てなかった。
1950年に愛知・享栄商高(現享栄高)を中退して国鉄(現ヤクルト)に入団。弱小球団だった国鉄で球界最高の投手として君臨し、強烈な存在感で「球界の天皇」とまで呼ばれた。1958年4月5日の巨人との開幕戦(後楽園)では長嶋茂雄から4打席連続三振を奪った。2人の勝負はプロ野球の隆盛の時期と重なった。
プロ野球史上最多の通算400勝、4490奪三振は、永遠に破られない大記録とされる。長身から投げ下ろす速球と大きなカーブを武器にプロ2年目から14年連続で20勝以上をマーク。65年に巨人に移籍。厳しい鍛錬を積む姿はナインの模範となり、9連覇の礎になった。69年に現役引退し、背番号34は巨人の永久欠番となった。
引退後は2度にわたりロッテの監督に就任し、74年には日本一を達成。「カネやんダンス」など派手な動作と言動で人気を集めた。78年に辞任後は野球評論家、タレントとして活躍。88年に長嶋茂雄氏とともに昭和生まれで初の野球殿堂入りを果たした。日本プロ野球名球会を設立し代表幹事も務めた。
キャンプでは自ら食材を買った「金田鍋」で体をつくり、安全面を考えて外車に乗り、専用運転手を雇った。生活面の意識の高さは「昭和の時代」で傑出していた。豪快であり、人情にも厚い。こんな投手はもう二度と出てこない。
井口監督らロッテが金田氏へ黙とう「パワフルな方」(ニッカン)
ロッテは7日、6日に元監督の金田正一氏が亡くなったことを受け、秋季練習前に黙とうをささげた。選手、コーチ、スタッフは左袖に喪章を付けて臨んだ。金田氏は73年から78年、90年から91年と2度監督を務めた。
井口監督は「今年もドームで1回お会いさせていただいて、いろんな話をさせてもらった。まさかという感じです」と驚きを隠さず。「記録を見れば400勝。我々のイメージは74年にロッテが勝率1位で優勝した時の監督。気さくにいろんな話をしていただいて、ぼくが監督になった時も監督がどういうものなのか教えていただいた」と監督としての先輩に感謝した。
金田氏との思い出を問われると「いつもマリンに来た時は(投手が練習中の)センターまで行って『ピッチャー陣もっと走れー!』というようなパワフルな方だった」と振り返り「74年に優勝して以来、我々は(勝率1位での)優勝をしてないので、74年以来の優勝を目指してやってきている。何とか少しでも追いつけるようにやっていきたい」と優勝を誓った。
教え子小宮山氏畏敬「298敗すごい」金田さん悼む(ニッカン)
早大・小宮山悟監督(54)が金田正一氏を悼んだ。90年にロッテでプロ入りした時の監督。プロとして教えを受けたという。「プロとして、いろいろ教わりました。切りがないです」と言葉を絞り出した。まず驚かされたのは、鹿児島キャンプの食事。テーブルに乗りきらないほどの皿が並んだ。「プロってすげえなあ、と。貧乏な大学生からプロになったわけですから。びっくりしました」。
金田監督の教えは「うちの食事は12球団一だ。栄養、睡眠を取って、自分で自分の体をいたわれ」だった。ピンと来なかったが、後々、大事なことだと理解した。ちなみに、食事会場からすぐ席を立つとカミナリが飛んだ。「みんな我慢して待機してました」。
理不尽に思うこともあったという。「なかなか納得できないことも。でも、見方を変えれば正しいんだと。感謝してます」。周囲が心配することがあった。5回2死まで投げながら、前田(幸長)に交代させられ、その前田が勝利投手になった。あとアウト1つで権利を奪われた。金田監督のコメントは「前田を育てないといけない」。小宮山は監督とうまくいってないのでは…。違った。「自分はしっかりした投球ができると判断された。何とも思ってなかったですね」。
2年目の91年には開幕投手(西武戦)に指名されたが、2回もたず7失点KO。「監督がローテを変えて、すぐ投げさせてくれました。自分も投手だったから、やられたのを引きずるのはよくないと思ってくれたのでしょう」。中4日で日本ハム戦に先発し、1失点完投勝利で応えた。
400勝投手として知られる。が、小宮山監督は「298敗がすごい。超える人は誰も出てこない大記録。298試合も投げないで引退する人もいるんですから」と、畏敬の念を込めて言った。
ロッテをパ・リーグ優勝と日本一に導いた監督は長い歴史の中でたった2人しかいません。
1974年の金田正一氏、そして2005年のボビー・バレンタイン氏です。
金田氏は人気のないパ・リーグをなんとか盛り上げようといろいろ尽力されました。
型破りなように見えて、誰よりも自己管理に厳しい選手。
こんな選手は二度と出てこないでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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愛甲、ディアズ、西村以外は毎日メンバーが変わっていましたし、渡辺や猪久保などは選手名鑑とにらめっこでした。
でもそこで鍛えられた初芝、堀、小宮山は長く選手生活を続け、優勝を味わえました。
伊良部や平井はタイトルを獲得できました。
ほかにも前田や幸彦、南淵に五十嵐など渋く長く活躍した選手は多かったです。
川崎末期から千葉初期、ロッテが大きな変革の時、金田監督は成績こそ振るいませんでしたが、多くの人財を残してくれたと思います。
改めて金やんにありがとう、そして色々な意味で日本一と言葉を送りたいです。