ロッテオリオンズのレジェンドOBである村田兆治氏が自宅の火災により亡くなられました。


村田兆治さん、自宅火災で死亡…一酸化炭素中毒の可能性(読売新聞)
 11日午前3時15分頃、東京都世田谷区成城、プロ野球・ロッテ元投手の村田兆治さん(72)方から出火、木造2階建て住宅の2階部分約40平方メートルが焼け、室内から村田さんが救助されたが、搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。警視庁成城署が出火原因を調べている。

 発表によると、村田さんは一人暮らしで、目立った外傷はなく、一酸化炭素中毒の可能性が高い。近隣住民が119番した。

村田兆治さん
 現場は小田急線成城学園前駅の北約1・3キロの住宅街。

村田さんは広島県出身。1968年、福山電波工高(現近大福山高)からドラフト1位で東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団した。左脚を高々と上げて右腕を豪快に振り下ろす「マサカリ投法」でエースとして活躍し、74年にチームの日本一に貢献した。

 82年に右肘を痛め、翌年に渡米して肘に 腱けん を移植する「トミー・ジョン手術」を受けた。当時の球界で肘の手術はタブー視されていたが、1年間のリハビリを経て一軍へ復帰。85年には開幕11連勝を飾って完全復活した。毎週日曜日に登板して「サンデー兆治」と呼ばれて人気を集め、90年に40歳で現役を引退するまで、速球とフォークボールを武器に通算215勝(177敗)、2363奪三振の成績を残した。

 2005年に野球殿堂入り。全国の離島の中学球児が対戦する「全国離島交流中学生野球大会」(離島甲子園)を提唱し、離島での野球振興にも尽力した。

 今年9月23日には、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとして暴行容疑で警視庁東京空港署に現行犯逮捕され、2日後に釈放されていた。


実は上記の読売の記事はある部分が訂正されています。
オリジナルの記事は東洋経済が掲載していますので、ご覧いただきましょう。


村田兆治さん、発見時にたばこを手に持っていた…自宅火災で死亡(東洋経済)
11日午前3時15分頃、東京都世田谷区成城、プロ野球・ロッテ元投手の村田兆治さん(72)方から出火、木造2階建て住宅の2階部分約40平方メートルが焼け、室内から村田さんが救助されたが、搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。警視庁成城署が出火原因を調べている。

発表によると、村田さんは一人暮らしで、目立った外傷はなく、一酸化炭素中毒の可能性が高い。近隣住民が119番した。

現場は小田急線成城学園前駅の北約1・3キロの住宅街。捜査関係者によると、村田さんは消防隊に発見された際、たばこを手に持っていたという。


そうです。
読売新聞の記事からは、以下の一文が説明もなく抹消されているのです。

捜査関係者によると、村田さんは消防隊に発見された際、たばこを手に持っていたという。

あのストイックな村田兆治氏がタバコなど吸うはずがない。
そういった疑問は各方面から上がっていました。
事実、その後の報道により出火現場からタバコは見つかっていないことが明らかになったのです。


発見時の村田兆治さんは寝間着姿 出火元の2階リビングにたばこは発見されず(サンスポ)
元プロ野球ロッテ投手の村田兆治さん(72)が11日に亡くなった東京都世田谷区の住宅火災について、警視庁成城署によると死因は火災による一酸化炭素中毒の疑いで、発見時は寝間着姿で座った状態だったことが分かった。

出火元は2階のリビング。発見時、村田さんはリビングと同フロアの小部屋にいた。目だった外傷や重度のやけどはなかったという。2階からたばこや暖房器具は発見されておらず、現在捜査中だという。

現時点で自宅から遺書の類は発見されておらず、家族に自殺をほのめかした事実もない。火災発生時、自宅は施錠されており、何者かが侵入した形跡はなかったという。警察は失火、放火の両面で捜査を進めている。



貴重証言「タバコは吸わない人のはず」村田兆治さん 残された火元の謎(東スポ)
“マサカリ投法”で知られる元ロッテ投手の村田兆治さんが11日、東京・世田谷区成城の自宅の火災により死去した。72歳だった。ただ謎も残っている。自宅2階で発見されたというが、なぜ寝室のない2階だったのか? また発見時にタバコを持っていたという報道もあり出火の原因とみられていたが、タバコは見つからなかったという。

 成城署によると、火元は2階のリビングの可能性が高く、出火原因は調査中とのこと。村田さんが発見されたのは同じ2階の小部屋で、パジャマのようなものを着て座っていたという。発見時に自宅にいたのは村田さん1人だった。小部屋は燃えておらず、村田さんにも重度のやけどはなし。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素中毒とみられる。

 発見されたのが2階という点に、近隣住民は首をかしげる。「村田さん宅は1階が寝室なんです。2階にキッチンがあるけど、火事があったのはキッチンじゃない部屋ですね。夜中の2時か3時あたりにどうして2階にいたのか。普通なら1階で寝ている時間だと思うが、遅く帰って来て、うっかり2階で寝込んでしまったのか」(近所の80代女性)

 村田さんの自宅は玄関が2階にあるタイプ。2階にはリビング、キッチン、小部屋がある。小部屋といっても書斎のようなものではなく、扉で区切られていたわけでもないという。

 成城署によると自宅は複雑な内部をしており、寝室は1階というより半地下に当たるとした。同署幹部は「寝室は一番下の階にあった。普段寝室を使っているのかいないのかということは分からない。小部屋は物がたくさん置いてあって寝るようなところではない」と話した。なぜ深夜にこんな小部屋にいたのか、ますます謎だ。

 もう一つの疑問はいまだ判明していない出火原因だ。一部報道では消防隊に発見されたときに村田さんがタバコを手に持っていたとされ、これが原因かと思われたが、近隣住民は「タバコは吸わない人のはずです」という。

 同署幹部は「捜した限りではタバコは見つかっていない。発見時に持っていたという事実も確認できていない」と明かした。タバコそのものが周囲から発見されていないという。「関係者に聞くと禁煙したという人もいるし、数年前は吸っていたという人もいる」(同)と現在も喫煙していたかは分からないという。タバコではないとすると、いったい火災の原因は何なのか。

 村田さんといえば、9月に羽田空港で女性検査員に暴行を働いたとして現行犯逮捕された事件が思い起こされる。前出の80代女性は「本当に気さくな方で、有名人だけど威張るとか鼻にかけるというところがなかった。そういう人だから空港のことは落ち込んでいたと思う」と振り返った。

 思いつめていたということはあるのか。同署幹部は「今のところ自殺を周囲にほのめかしていたという話はない。遺書も発見されていない。油分の検出については調査中だ」と話した。油分調査とはガソリンをまくなどしていないかということ。また、自宅は施錠されており、外部からの侵入の形跡はないとのこと。

 11日の実況見分ではリビングからバーベルのようなものも見えた。還暦を過ぎても130キロの球を投げられたというだけに、最近もトレーニングを欠かしていなかったということなのか。地元で愛されていただけに、悲しみは広がっている。


結局タバコは見つかっておらず、読売新聞の誤報です。
しかし、いくつかのワイドショーでは読売新聞の記事をもとに、寝タバコが原因であるかのような報道をしてしまっています。
人の生死にかかわることを適当に報じるのはやめてほしい。
記者の勝手な思い込みが死者の尊厳を冒涜しています。
読売新聞は速やかに謝罪記事を掲載し、責任を取るべきでしょう。


さて、突然の訃報を受け、関係者からは驚きと悲しみの声が上がっています。

【ロッテ】吉井理人監督が村田兆治さん悼む「一緒に練習しよう、って。すごい練習をさせられた」(ニッカン)
ロッテ吉井理人監督(57)が11日、この日72歳で逝去した球団OBの村田兆治氏について「素晴らしい、尊敬する野球人だと思っていたので、今日こういう感じでニュースを知るのはすごく残念に思いました」と声を落とした。

この日朝、侍ジャパンで訪れた札幌から千葉へ戻り、ZOZOマリンでの秋季練習に参加し、報道対応した。村田さんの印象を問われると「トミー・ジョン(手術)第1号という、その印象が。自分も若い時にトミー・ジョンを勧められたんですけど、村田兆治さんのリハビリを見ていると、あんなにできる自信がなかったので僕はやらなかったですけど。復帰するのに2年くらいかかったんですかね。あそこまで根気よくリハビリをする勇気は自分にはなかったですね」と話した。

近鉄時代の88年、オールスター出場時に村田さんの方から話し掛けられたという。「一緒に練習しよう、って。すごい練習させられましたよ。ポール間をガーッていっぱい走らされて、腹筋1000回くらいやらされて。そのあとオールスター明け1週間くらい、調子悪かったので覚えてるんですけど」と笑いながら「これくらい練習しないと、一流になれないんだなというのは感じました」と当時を振り返っていた。【金子真仁】



【ロッテ】「サンデー晋吾」小野晋吾コーチが村田兆治氏悼む「偉大な背番号守るために必死で」(ニッカン)
ロッテ小野晋吾1軍投手コーチ(47)が11日、この日、72歳で逝去した球団OBの村田兆治氏について「悲しいですね…」と言葉を重くした。

この日も秋季練習でZOZOマリンを訪れた。「いや、もう、突然の悲報というか、ちょうど球場着いた時にそのニュースを知ったので、ほんと、言葉がないというか」と言葉を選ぶように話した。

村田氏が現役時代につけた背番号29を背負い、村田氏と同じように日曜日に投げることが多く「サンデー晋吾」と呼ばれた。

「本当におこがましいんですけど、サンデー晋吾と呼ばれるようになって。自分としてはうれしい半面、偉大な方だったんで、その成績に見合うような、背番号を受け継いでから、背番号を汚さないような思いで。偉大な背番号だったので、それを守るために必死で現役時代はやっていたので」

01年にはサンデー対談が実現。体幹の大事さや指を鍛えることについてアドバイスを受けたという。

29番は現在、西野勇士投手(31)に受け継がれている。西野も村田氏同様、トミー・ジョン手術を受け、復活を果たした。小野コーチは「僕としても成績は及ばないまでも、とにかく長くプレーができるようにという思いでやっていたので。西野に託した時も、この球団の29番って特別な番号だから、とにかく長く背負えるように頑張ってほしいという話をしました」と明かした。【金子真仁】



村田兆治さん悼みロッテOB小宮山悟氏「頑固な人でしたけど、本当に優しくしてもらいました」(ニッカン)
ロッテOBで早大野球部監督の小宮山悟氏(57)が、亡くなった村田兆治氏を悼んだ。

入団1年目の90年が、村田氏の現役最終年だった。最初に言葉をかわしたのは、1月の合同自主トレの時だった。

「川崎球場でした。村田さんは参加してませんでしたが、たまたまいらっしゃって。あいさつに行ったら『頑張ってくれよ。(スカウトの)醍醐さんから話は聞いている。とにかく期待しているから頑張れよ』と声をかけてもらって、感激したのを覚えてます」

1年目から同じ先発投手として行動をともにすることが多かった。

「地方での試合が多くて、山形で試合があって、翌日は仙台なんてスケジュールが結構ありました。その時、2人とも登板予定がないと、山形から一山、二山越えて、チームとは別に先にタクシーで移動する。村田さんとご一緒させられることが多かった。車内で音を立てると怒られるんです。会話は必要最低限。運転手さんもラジオを切った。しかも、村田さんはクーラーが一切ダメで『自然の風だ』と言って、窓を開けて走らされる。私は内心『おい、おい、おい』と思ってました。ちょっとでもリラックスした姿勢を見せたら怒られるから、前に重心をかけながらね。かなりの地獄でした」

そう言って、懐かしんだ。「頑固な人でしたけど、本当に優しくしてもらいました」。小宮山氏の登板翌日には「昨日は良かったな」「あそこで、あの球はダメだぞ」などとアドバイスをもらうことも多かったという。

その年、村田氏は2ケタ10勝を挙げながら現役を引退した。その姿が、ルーキーだった小宮山氏には強烈な印象として刻まれた。

「村田さんの生き様というのかな。それは勉強になりました。意地を張って、自分のプライドを守るために頑張る姿というか。プロはこうじゃなきゃいけないんだと」

ただ、こうも思った。

「なんで、この成績で辞めちゃうんだ。もったいないと。私の中では、余力を残して、というのはちょっと違うと感じました」

小宮山氏は2浪して大学に入ったため、他の大卒ルーキーよりも年を取っていた。そのため、醍醐スカウトに「年齢がいってからのプロ入りですから、長くやる気持ちは、さらさらありません。短命で構わない。燃え尽きようと思います」と話していたという。

「村田さんの引退を見たとき、やれるんだったら、とことんやらなきゃダメだと思いました。いい意味での鏡ですから」

小宮山氏は44歳まで現役を続けた。

突然の別れを知り、何度も「本当に優しくしてもらいました」と繰り返した小宮山氏。「なんて言ったらいいのか。ロッテの大エースと言っていい。本当、残念です」と悼んだ。【古川真弥】



【ロッテ】村田兆治さんとのステーキの味も覚えていないほど衝撃のひと言 福沢洋一さん回想(ニッカン)
ロッテOBの村田兆治さん(72)が11日、亡くなった。多くの人が衝撃を受けた。福沢洋一さん(55)もその1人だ。「ニュースを見て、ビックリして。言葉にならなかったです」と言葉を絞り出した。

ひと呼吸置いて、じわじわと記憶が明瞭になっていく。「2年目に開幕戦でバッテリーを組ませてもらった時がフラッシュバックしました」と振り返った。

1990年(平2)4月7日、大阪の夜を福沢さんは忘れもしない。88年ドラフト外で入団し、強肩捕手として2年目の開幕ベンチを勝ち取っていた。オリックスとの開幕戦を翌日に控え、福沢さんは村田さんに食事に誘われた。

「2人っきりで。何だろうなとドキドキして。ドキドキとうれしさが交差する感じでしたね」

ステーキを前にして、当時40歳の村田さんから突然、告げられた。

「明日、頼むから」

金田新監督からも全く聞いていなかった開幕スタメンマスクを、18歳年上の大先輩から直接、面と向かって通知された。ドキドキは最高潮。「ステーキの味も覚えていないくらいで」。その後はゆっくりと野球談議を交わした。

翌日の開幕戦は8番捕手でフル出場。1失点完投に導き、大ベテランの信頼を勝ち取った。バッテリーを組むようになって、さらにとことん鍛えられた。

「直球の威力は見たことないし、フォークは見たことないところでワンバウンドしてましたね。それを『止めろ、止めろ』と。ベース板の何メートル前でバウンドしても『止めろ』と。それくらい厳しく言われましたね」。

村田さんは試合に入り込むタイプだったという。そこに合わせる。「顔色を見ながら。スイッチ入った時はすごい球を投げてくるので」。必死に捕り続け、技術も磨かれていった。

福沢さんは03年に現役引退し、他球団も含めてコーチや2軍監督を経験し、19年からは古巣でスカウトを務めている。村田さんのオリオンズ時代から、ロッテに受け継がれているものはあるのだろうか。

「いいのか悪いのか別として、投手同士で本来だと教え合ったりはないんですけど、けっこうこうだよああだよとアドバイスを送ることが多かったんですよ。でも教えても、そう簡単にできることではない。『オレ、それ以上頑張るから抜けないよ』というような伝統がありました」

協調しながら、高め合う。自身がスカウトとして担当した高部瑛斗外野手(24)や佐藤奨真投手(24)らもそうやって、立派な1軍戦力に成長した。

訃報に接したこの日午後、福沢さんは神宮球場のスタンドにいた。ドラフト1位指名した専大・菊地吏玖投手(22)の投球を熱心に見守った。村田さんの思い、ロッテの伝統を未来へつなぐべく、全国を駆け回る。【金子真仁】



山田久志氏「一体どうしたんだ、兆治?」村田兆治さん悼む ライバル心むき出しに時代を戦い抜く(ニッカン)
<悼む>

マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。

   ◇   ◇   ◇

兆治の訃報を聞いた瞬間、大きなショックを受けて身動きがとれなかった。あまりに突然の出来事に「一体どうしたんだ、兆治?」とぼうぜんとするしかありませんでした。

わたしが2つ年上で、プロ入りは兆治が1年先の同世代です。常にわたしを意識していたし、ロッテのエースとして強い阪急を倒すことに執念を燃やしていた、反骨心の塊のような一流投手でした。

1986年(昭61)4月6日、わたしの12年連続開幕投手が川崎球場でのロッテ戦で、兆治とお互いが2日間雨でスライド登板になった。結局わたしが完投勝ちを収めるのですが、常に好敵手でした。

性格は一本気で、自分が決めた道はひたすら進むタイプです。当初はボールは速いけどコントロールのつかない自滅型。でも独自に編み出した「マサカリ投法」は傑作で、フォークを操りながら勝てる投手に生まれ変わりました。

右肘のトミー・ジョン手術後は、スライダーを習得して復活。その後の「カムバック賞」が物語っているように、速球派投手に制球力がついて再び息を吹き返したのです。

前からタバコをやめていたし、体にも気をつけていたはずです。ストレートすぎるから、仲間内でも衝突することはあったけど、周囲は兆治の性格を知ってるから事態が大きくならなかったものです。

沢村賞の選考委員も辞退していたので、少し気になっていた矢先です。同じパ・リーグに生き、ライバル心をむき出しにし、時代を戦い抜いた大切な後輩でした。これが兆治との永遠の別れになってしまうのは、あまりにもつらすぎます。



【ロッテ】村田兆治さん訃報、半旗掲げ黙とう 背番29と“サンデー”継承小野晋吾コーチら沈痛(ニッカン)
ロッテは11日、球団OBの村田兆治さんの訃報に際し、本拠地ZOZOマリンに半旗を掲げた。侍ジャパン帯同から戻った吉井理人監督(57)も含め、秋季練習中にしめやかに黙とうを行った。

吉井監督は「素晴らしい、尊敬する野球人だと思っていたので、すごく残念に思いました」と、お悔やみを口にした。88年の近鉄時代の球宴で「一緒に練習しよう」と声を掛けられた。「すごく練習させられました。ポール間をガーッて走らされて、腹筋1000回くらいやらされて」と笑い「これくらい練習しないと一流になれないんだなと感じました」と回想した。

小野晋吾1軍投手コーチ(47)は「悲しいですね…」と声を落とした。村田さんの代名詞の背番号29を、プロ8年目の01年から付けた。日曜日の登板が多く“サンデー兆治”と呼ばれた大先輩にならい“サンデー晋吾”と呼ばれた。「おこがましいんですけれど、そう呼ばれるようになって。背番号を汚さないようにやっていました」。14年に29番を託した西野にも「この球団の29番は特別な番号だから、とにかく長く背負えるように頑張ってほしい」と伝えたという。それぞれが思いを背負い、来季へ向かう。【金子真仁】



村田兆治さん悼む「川崎球場」跡地の献花台「頑固な人もいたほうが…」手を合わせるロッテファン(ニッカン)
ロッテが78年から91年まで本拠としていた「川崎球場」跡地にある「富士通スタジアム川崎」事務所内に、村田兆治さんを悼む献花台が設置され、12日には500人を超えるファンらが訪れた。

発案者の田中育郎支配人(54)は川崎市出身で、大洋(現DeNA)の本拠として使用していたころから川崎球場を見続けてきた。過去には村田さんが同地での毎年恒例イベントにゲスト参加してくれたこともある。「村田さんが来てくれた時は一番盛り上がった。私も事務所にあるギャラリーを案内した時のことを覚えていないくらい緊張しました。女性スタッフにフォークの握りを教えてくれるなど、本当に優しい方でした」。

その数年前、村田さんが「替わり果てた川崎球場を見たくないから」と、ゴルフ雑誌の取材で同地を訪れることを拒んだ際に「照明灯とフェンスは当時のままで残っているんです」と説得したのも田中支配人だった。1954年(昭29)から現在も使用されている照明灯2基は来年1月10日に、残念ながら撤去されることが決定。同7日にはサヨナラ企画が予定されており「実は村田さんに来ていただきたいと思ってお願いしようと思っていたところなんです」とかなわなかった。

千葉市在住の40代男性ロッテファンは「小学生のころに印象に残ったダイナミックな投手」と川崎球場で村田さんが活躍していた時代のユニホーム姿で手を合わせ、「村田さんの心意気を今のマリーンズの選手にも引き継いでほしい。頑固な人もいたほうが…」と期待を寄せた。【鎌田直秀】



今40代の元野球少年な皆様は、一度は村田兆治氏のフォームをまねしたことがあるのではないでしょうか。
子どもも大人も魅了する、荒々しい魅力のあるピッチャーでした。
村田兆治氏の早すぎる死はとても残念ですし、ショックです。心よりご冥福をお祈りします。

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